子供とキリスト

家からかなり距離の離れた三宿の幼稚園へ通っていたときのことだ。 友達の多くは太子堂商店街近辺に住んでいて、またその界隈で遊ぶ事が多かった。 友達の家の前にあった車三台分くらいの月極駐車場に、教会から50代と思われるおばちゃんと 20代初めくらいの障害をもったお姉さんが来て、近所の子供達と歌を唄ったり 聖書の話をしてくれたのは何曜日だったのだろう? このお姉さんのことはとてもよく覚えている。 右斜め下に首が固定されていて動かないという障害があり、 不思議な魅力を感じてよく見とれていたと記憶する。 髪型、服装、掛けていた眼鏡のデザインに至るまで、今でもありありと思い出す事ができる。 私が最も楽しみにしていたのは、そこで毎回貰えるカードであった。 名刺くらいの大きさのそのカードには毎回違った聖書の言葉と絵が書いてあり、 そのカードを集めることは私の楽しみの一つとなった。 卒園すると、太子堂に赴く事はなくなり、カードを集める事ができなくなった。 私は小学生になるのだが、日曜日には午後過ぎまで誰も起きてこない家だったので 朝早く起きて、暇を持て余した私は近所の教会へ自ら足を運んだ。 そこへ行けばカードがもらえることを誰かに聞いたのだろう。 他の人たちから奇異な目で見られるのをとても恐れたと記憶する。 なにせ私はピカピカの一年生で、知り合いは1人もいないのだから。 目当てのカードは礼拝堂の入り口に積まれていて、ただ貰って帰る訳にも行かず、 礼拝堂に座っていると賛美歌が始まり、次いで牧師の説教が始まった。 周りの人たちはなにやら分厚い本を開き始めた。 それこそ、大人も子供も、私以外の全員が本を開き始めた。 その本はなにかと近くに座っていた人に問うと、聖書だという。 どうやったら手に入るのかと問うと、その教会で売っていると言う。 私は礼拝の途中で家へ戻り(家から2〜3分の距離だった) 小学校に入ってから貰い始めたお小遣いを手にして教会へ戻った。 確か、260円とかそんなものだったと思う。 そんな顛末で私が生まれてはじめて自分で買った本というのは聖書なんである。 随分変わった子供だな、と人ごとの様に回想する。 結局新約聖書を読み通したのは、それから大分経ってのことになるのだが、 今に至まで神について、思考することは少なくない。 神について思考するといっても大方二つのパターンがあり 一つは、一神教、多神教を含めた所謂宗教の中で語られる人格を持った神についてであり もう一つは、スピノザの言う所の神、即ちこの宇宙に存在するありとあらゆるすべてと、 そこに働くあらゆる自然法則の総称としての神だ。 ちなみに私はキリスト教徒ではないが、イエスには一目置いている。

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