C.H.ダグラスの経済学とルドルフ・シュタイナーの経済学の関連について

C.H.ダグラスの経済学とルドルフ・シュタイナーの経済学の関連について オーウェン・バーフィールド著 http://www.rsarchive.net/RelAuthors/BarfieldOwen/barfield_economics.php 最近ロンドン局から放送された、C.H.ダグラス少佐とデニス・ロビンソン教授の議論は、世界が理解し始めたダグラス少佐の経済理論、その名に負う「社会信用」運動への関心の高まりを示している。イギリス人智学協会の多くのメンバーは、ダグラスの経済学とルドルフ・シュタイナーの経済学との、何かしらの関連を漠然と意識している。例を上げれば、ダグラスはその著作のなかで「社会三層化論」を引用する、数少ないイギリスの作家の一人である。彼はロンドン本部の協会で講演を行なったことがある上、イギリス人智学協会の数人のメンバーは長年、個人的に社会信用論に興味を抱いてきた。したがって、もし関連があるならば、誰かがどの様な関係があるのかを示してみると良いのではないだろうかと、そんな試みを今回の論説で行なってみようと思う。当然、著者には、司教座の前でそのような資格はないのだが。著者は確実な所見と結論に達した二人の生徒に過ぎなく、もちろん文責のすべては著者にある。 シュタイナーの経済学講座は、人間自身の本性は一方で自然、他方で精神の間の本質的両極性を持っているという概念に基づいて構築されている。これについては、彼の著書「社会三層化論」と共通している。ところが著書は、人間社会全体の中で本質的両極性が、どのように自身を表出するために努力しているかを明らかにしているが、経済学講座では経済循環に関して、生産と商品の交換に関してのみを扱う。それは主に「社会三層化論」全体の三分の一部分とだけ関係している。 しかし、その本質的両極性とその両極性から生じる三位一体性(trinity)は、(すべての純粋な有機生命体にあるように)社会構造全体におけるのと同様に、部分にも顕われている。そして経済学講座の最初の講義で、シュタイナー博士は極めて実り多い「経済的スペクトル」の概念について述べ、自然と赤外線を経済プロセスの一つの端に、そして精神と紫外線をもう一方に置くという類比を描きだす。純粋な経済プロセスは、この二つの間に位置し、それらの相互作用の結果である。それに続く講義でシュタイナーは、この作用の更なる詳細について述べる。どのように人間の精神が自然に作用し、商品や品物の生産を行ない、同時に、経済的価値を発生させるか、そして商品や品物自身が消費、腐朽に接し、再び自然へ還ることを通じて、経済的価値が無効化され破壊される、あるいは、されるべきであるかを教える。精神がこのように自然を変質させる一つの主要な手段、産業文明の特徴的な手段は労働の分業として知られるプロセスである。労働の分業とともに、半−精神の対象物として「資本」が実体となる。 資本とは機械類、建物、その他同類の実物資産といった様相を呈していて、それはマネーといった様相にも交換可能なものである。【1】具体的に言うとマネーとは商品であるが、しかし他の商品とは区別される何ものかがある。そしてそれは、「摩耗しない」と普遍的に容認された虚構である。摩耗するものから作られた貨幣の(素材としての貨幣はすり減るが)、額面上の価値がすり減ることはない。(そのように容認された虚構である)。それは永遠に続くと思われている。さて、これは収集して貯蔵することの出来る、ある商品の特徴であるが、もう一方で、これは永遠に商品であり続けるわけではない。(これも同様に特徴である)。適当な時期に蛾と蛆が世話をし、やがてその物資は自然へと還る。しかし物質的腐敗といった破壊からは免れていると、単に“思われている”に過ぎない観念を貯蔵することはできない。それが時空間のなかに存在することはありえない。観念とは、新しくも古くもなく、ここでもそこでもなく、ただ真実であるか否かである。今日では、マネーの根源的性質に、このような自己矛盾があると考えられている。不調和に組み合わされた自然と精神は、絶え間なくその中でばらばらに争い合っている。さて、マネーが手から手へと自由に通過する単なる交換媒体として機能している限り、つまり、マネーが代価として使われている限り、この自己矛盾の悪影響は絶えず修正されている。消費の為のそれぞれの購入には、経済的価値の破壊がある。しかしマネーが貯蔵され始めるや否や、換言すると、投資に使用され始め“資本”の様相を呈するとすぐに、その自己矛盾は効果を発揮する。そしてそれは意識的に抑制される必要がある。 マネーの本性のなかにある、この自己矛盾要素が表出することで、シュタイナーが“資本の自己保存的性質”と呼ぶ極めて重大な法則が顕われる。もし経済的価値の創造される割合が、価値の崩壊の割合に対して不釣り合いであれば、(市場に)吸収されない大量の資本が、商品の交換と循環を遮ることで、経済システムの大混乱を招く。その結果は産業不振 − 説明を要求しなれた事態である。 さて、資本の自己保存的性質という観念は、むき出しの概念としてかなり容易に理解される。これを理解することと、日常的な出来事にどのように適応されるかについて、明快な見解を得ることとは異なる問題である。まず疑問が生じる:資本とはなにか?これに答えるには、ダグラス少佐の研究を参照する以上に誰も良くなし得ない。先日の、金融及び産業に関するマクミリアン委員会で、ダグラスが提出した証拠を例にとる。現代の我々の金融制度のもと、資本が負担をかける方法とは、不適切に商品価格へ計上されることにある。これには、かなり注意深い説明を要する。Aは1000ポンドを所有しており、彼はこの1000ポンドを家屋の建築に使おうと決める。彼は100人の作業員を家屋の建築のために雇い、10ポンドずつの賃金を彼らに支払う。(1000ポンドはすべて賃金に回ってしまうという主張を度外視して仮定される)。最終的な段階で、状況はこのようなものとなる — Aは家屋を所有し、マネーはない。100人の作業員たちは1000ポンドを所有する。さて、作業員たちが協力し合い、彼らがAのために建てた家屋を、Aから1000ポンドで買い戻そうと決定する。Aは1000ポンドで売ることに了承する。こうしてAはこの例えから消え、作業員たちが家屋を所有し、マネーはないという状況となる。(実例を解りやすくする為に、作業員たちは家を建設している間、他の生存手段を持っていたと仮定する)。マネーがない?購入のためのマネーがないのである。作業員たちは家屋を工場として使用する目的で、有限会社を立ち上げると仮定する。工場は商品を生産し、市場へ出荷する。さて、今や工場主、もしくは株主となった彼らは、どのような理由で最低価格を決定し、商品が幾らならば納得できるだろうか?【2】(今日、この最低価格は生産コストと呼ばれる)。【3】 ダグラスが指摘するのは、100人の工場主が労働によって工場を手に入れたとも、また1000ポンドを工場に“支出した”とも言わないだろうということである。(そしてその結果、マネーは残っていない)。彼らは1000ポンドを“投資した”と言うだろう。この二つの言葉の意味の間には、世界の相違がある。もし私が楽しむために1000ポンドを使うとすると、即ち、もし私が1000ポンドを消費可能な品物と交換すると、最終的に私は1000ポンドが私のものではなくなることに同意する。しかし、もし私が工場の購入に1000ポンドで“投資”を行なうか、あるいは1000ポンドを工場主に貸付けるとすると(総計は同じであるが)、私は10年後にこの工場へきて「私の1000ポンドを現金で返せ」と言えることを要求する。私がこのことを、その工場の売却として、またはローンの回収として行なおうと違いはない。想像してみてほしい。10年の間に工場は使い古されている!そしてその結果として、その10年間に工場で生産される商品の価格には、単に工場労働者の賃金や原材料費が含まれるだけではなく、10年後に私に返済する1000ポンドを蓄えるために、それを商品価格に含めなければならない。 これがまず、資本の自己保存的性質が、普段の生活に影響を及ぼす格好の例である。売却される商品の価格として影響を及ぼす。正当であるか否かが、現時点でのポイントではない。最低限明らかなのは、もし、1000ポンドの投資家たちが快く承諾していたならば、十年後に工場が使い古されていることで、彼らの1000ポンドの資本は、もはや存在すべきでないものとして、彼らの生産コストに、予定されていた1000ポンドを記載する必要がなかっただろう。つまり、最低価格で商品を販売することができるということである。 一度あなたの中で、支出と貸出、消費として購入することと、投資として獲得することとの、根本的な違いが明確になると、シュタイナーが経済学講座で、マネーについて言わんとしたことを、随分理解したことになります。消費可能な商品に支出したマネーは、交換されたマネーである。しかし、もし私が1000ポンドを貸し付けるか投資をすると、私の借り手は、翌週には賃金として支払い、そして手から手へと渡っていく状況であるにも関わらず、そこにはある種の影、あるいはマネーの幻影として私の所有権が残存するだろう。これが私の金融資本である。これが、シュタイナーが‘Leihgeld’と呼んだものであり、貸付金、もしくは(私はこのように訳すのを好むが)“投資金”である。 資本の本性と自己保存的性質については、これくらいにしておこう。我々が引き続き、この性質の影響について考察するならば、ルドルフ・シュタイナーによってであろうと、ダグラス少佐によってであろうと、この問いに導かれる。“賃金”という言葉は、なにを意味しているのだろうか?家屋と作業員の例のなかで、賃金は彼らの“作業に対して”支払われると述べられている。しかし実際、賃金と呼ばれる、これら支払われたマネーは、3つの異なる方法で考察することがで可能である。(1)“労働”と呼ばれる(仮想の)商品の、売り手に対して支払われる価格として。(2)生産者自身が消費者として、彼らの生産物を消費可能とする配布物として。あるいは(3)生産者が創り出した商品、または商品価値に対して支払われる価格として。 最初の方法は、今日において一般的に賃金とされているものである。これまで発展してきた産業構造のなかで、労働は商品と見なされてきている。二番目の方法はダグラス少佐の著書の中で、賃金としている方法である。その着想の本質は、世界の国々がごく自然に、多かれ少なかれ、間違いなく商売敵として考えられていた時代から、唯一実際の経済単位が全世界である、この時代に至るまでの経済理論の変遷を記している。【4】三番目の方法で賃金としているのが、ルドルフ・シュタイナーによるものである。 資本の自己保存的性質によって、価格に影響が生じることへと戻る。まず始めに、賃金についての、一番目の概念の認識の下で考察してみよう。最低価格を決定するために、どのような考察が為されるだろうか。賃金が“労働”と呼ばれる商品の価格と見なされ、見積もられる上で、株主もしくは工場主たちは、彼らの工場が出荷する商品の価格が、幾らであれば承諾できるだろうか? 思い出してください。今や作業員たちは、最初の1000ポンドを所有していない。(いわば購入のためのマネーがない)。したがって、彼らは労働者に支払うために必要な資力を借入れなければならない。その結果、この最低価格は、少なくとも三つの要素から成立するだろう。 (i) 労働コスト(賃金) (ii) 原材料費 (iii) 1000ポンドの資本金(貯えるため) これが、賃金は労働と呼ばれる商品に対して支払われる価格であるという原理の上で、算定したコストの結果である。いったん我々は、製造された商品のコスト(とその最低売却価格)が決定される際に、賃金が単に三つの要素の一つでしかないことに注目した。しかし、賃金は実際、消費者となるものへと購買力が分配される、主要な手段でもある。当然の結果として、(a)生産商品がコストよりも安く販売されるか、(b)購買力の分配が、同時に他の供給源から為されるか、(c)“賃金”が全体的に異なる基準で算定されない限り、問題とされている間ずっと、社会が生産したものを購入可能とするためには、不十分な量の購買力が分配され続けることになる。 これが、要するにダグラスが15年間、聴衆に対して言い続けていることである。はじめは徐々に、しかし現在では急激にその数を伸ばしている。資本勘定の慣行は、賃金が近代産業社会(の人々)に対して分配される、購買力の主要な手段であるという事実とともに、商品価格に負担をかける。社会で生産可能である商品の割合よりも、購買のためのマネーが決して十分に流通しない状況下で、これら二つのことは共に生じ、彼曰く、必ず現在のような事態を招く。 このようにして、三つの異なる方法で賃金を考えることによる最初の結果−我々は今、その状況のなかの我々自身を見いだす−全体的豊かさの中の、全体的貧困であると言うことができる。二番目の方法で賃金を考えることの結果、人はこの状況を理解し、私たちが誤って向った先を知ることを可能にする、あるいは、するだろう。 しかし、よく知られていることであるが、ダグラスは単に誤りを指摘するだけに留まらない。彼には物事を修正するための明確で、建設的な提案がある。(a)コスト価格よりも安い商品の販売と(b)他の供給源による購買力の分配の両方を準備することによって、欠陥のあるコスト構造の不合理な影響を、妨げることを提案する。依然として彼は、賃金が品物のコスト(とそれに伴う最低価格)の部分を形成していると考えるが、しかし、消費者が全ての最低価格に接するための、十分なマネーを所持しているように取りはからう。そして、彼がこれをどのように行なうのかに注目することは、特に興味深い。 銀行業の歴史は、所有可能な全てのものは減価償却を課せられている(即ち“自己保存”のため)、という法則から逃れることを成就するための、資本の痛ましい努力によって、発展的に具現化したものである。盗んだり、切り刻むことのできる金から紙幣へ(所有者に対する適切な事前注意によって、紙そのものが盗まれたり燃やされたりした場合でも、その額面価値は維持されるだろう)。そして紙幣から銀行信用へと、今日に至るまで、気付かないうちに変化が加えられた。今日、資本の巨大な塊たちは、成長を抑える徴候があり、世界を無気力にする。そのほとんど全ては、実体が無く、また否定的な形態で存在する。現在、世界各国の中央銀行は、世界の資本の大部分の所有者である。しかし、この資本は(小分けに貯えられておらず)、金庫室に大量の金や紙幣の山として、明白に示されてはいない。それは投資される限りにおいて、負債の形態をとり、社会の残りの人々が銀行制度へと支払う義務を負う。それが未投資である限りにおいては、銀行による、通貨と信用を創造する権利の独占という形態をとり、まるで貸付金であるかのように、(通貨と信用が)社会へと分配される。 もし、ダグラスの提案が採用されるならば、金融上の信用を創造する、この独占権は銀行から剥奪され、社会の代表として国家に帰属する。そして、このようにして国家に創造する権限が与えられた信用は、何のために使用されるのであろうか?−商品をコスト以下で販売可能とするためである。このように使われることで、我々が見てきた最低価格を決定する三番目の項目である、資本費用を取り消すことができる。言い換えるならば、彼の提案は、産業時代の初期から蓄積され続けてきた、資本の膨大な塊を解体する効果があるだろう。資本の破壊はこのように、購買のためのマネーの新たな創造を伴って起こると思われる。 現行の我々の制度のもと、金融資本(投資金)の個人、もしくは私的所有者は、社会から、現存する同量の貨幣との交換を要求する権利を有している。ダグラスの提案は、膨大な資本の塊が購買力を創造する事態と置き換わるだろう。これは国の行政機関によって行なわれるのであろう。 ルドルフ・シュタイナーもまた、障害である資本の塊を解体するための対策を立てている。しかし、その作業は国家よりも“経済連合”によって制御されるべきであると彼はいう。購買力の創造に関するシュタイナーの提案“三種類のマネーの導入”(購入金、貸付金、そして贈与金)は、しばしばあり触れた改革として考えられているが、これは誤解である。実際に彼が述べたのは、すでにマネーは使用目的に応じて、これら三つの形態を取っているということである。一般的な購入のためのマネーは実際、投資されるや否や、全く違う種類のマネー(Leigeld- 投資金)に変換される。「但し」、シュタイナーは言う。「マネーについて見て、考える現在の我々の方法が、こうした変容を覆い隠している」。そして、この覆い隠すものは取り省かれなければならない、と付け加えた。 シュタイナーは、なんらかの明確な改革措置の提案よりも、実際に起こっている事態について説明することを心掛けている。これは彼が、他のものの仕事がより直接に、経済生活に関係していると考えていたからである。彼は、経済学講座で再三にわたって提案を行なったあと、これが例えのようなものとして与えられただけであり、直面する状況に応じて、全く違う手段が最もよい結果になるかもしれないと、条件を付け加えた。彼が自身に課した仕事とは、人々が知ることを手助けすることにある。いったん人々が知ったならば、彼ら自身で行動することが可能であろうと、彼は確信していた。 このようにして、彼が取り扱った、この資本投資の不変性の問題についての提案の一つは、マネーが他の商品と同様に“摩耗する”ものとして作られなければならないことである。時を経る過程において、マネーは一日ごとに、その消滅へと近づいて行くように構成されるべきである。しかし、この老朽化と必然的な価値の喪失は、投資金としてのマネーに対してだけ適応されるであろう。購入のためのマネーとしては、どれだけ時を経ようが、すべての額面価値が維持されるだろう。そして、いったん投資したマネーは、購入のためのマネーに再変換されることはないだろう。すべての最も古いマネー、有効期限間近のマネーであっても、贈与金として使用されることは、依然として可能であるとしたいと思う。そして、この最終的な変容の後に、これらの“経済連合”によって更新されることも有り得る。(もしくは、新規マネーの創造に相当しているとする)。“経済連合”とは、シュタイナー社会学の重要な特徴であり、社会三層化論に劣らず、経済学講座においても著しく関係している。 さて、この明確で、実践的な提案の重要性を過小評価する必要はないが、私見では、最も重要な唯一のこと、その本質が含まれていることに気付かないことは、経済学講座の誤解になると思われる。そして、その本質とは、資本の自己保存的性質の影響を妨げる手段を見出すことにある。世界は金融資本を蓄積する方法を見出した。課題は、それを破壊する手段を見いだすことにある−人的、精神的価値を破壊すること無く。人的、精神的価値が生み出し、そして適切に管理したものが促進する番だろう。 ダグラスはエンジニアとして、経験によってこの問題に近づき、注意を社会学に向け変えた。それは、資本の自己保存的性質からなる、実際の金融資産と対決させられた彼の日常生活から起こり、彼自身を解決にむけた動きに位置づけた。シュタイナーは、言うならば、人間の本性全体についての彼の知識の蒼穹から、問題に到達する。彼は、その性質による直接の影響にあまり気を取られていないと述べ、彼の仕事はむしろ、性質そのものを解明することであると考えている。彼は、患者に健全な食餌療法と、正常な人間の生きる道を処方する医師のようである。一方、ダグラスは、盲腸の手術を行なう準備ができた外科医に似ている。 このことはまた、生産のための賃金とコストに対する、この二人の作家の考え方に、とても明瞭に表れている。ダグラスは、世界の原価計算制度にある財政上の欠陥を検出し、説明する。購買力の分配はいかなるときでも、その時点で市場にある消費財価格と一致させなければならないと指摘する。現に今日、購買力の分配は、これらの価格によって決められてはおらず、実際には“賃金”として、いまだ生産過程のなかでコストの一部を形成している。このようにして、購買力と価格の間にギャップが生じる。このギャップを、ダグラスは、私が説明を試みた方法で、埋めようとしている。 一方、シュタイナーは難題を一挙に解決することから始める。労働は商品ではなく、したがって賃金が“コスト”とはなりえない。そのように賃金をコストと見なすことは、純粋に経済的な理由で、災難をもたらすに違いないことを、彼は知っていた;倫理と経済の根が未だ絡み合う、真実の汚れの奥底から引き出される、彼の知識によって。人は支払われなければならない−彼の労働の価格、制作の過程に未だある物のコストの一部としてではなく、彼が既に制作した物の価格として。人は中世の時代の職人たちのように、彼自身で完全な商品を作ることはできないだろう。それでもやはり、週の終わり、もしくは他の期末には、商品の抽象的部分を制作しているか、多くの商品の抽象的部分が制作されており、それは財政的に価値として計測できる。これこそ彼が社会に売るべきものであり、彼の手の労働ではない。手は人間の部分であって売りものではない。ダグラスはいう「市場にある商品の価格の総計と同額を、彼に支払いなさい。価格は過去のコストによってではなく、それ自体によって決定される」。シュタイナーはいう「彼が生産した商品の価格、それ自体を支払いなさい。その価格は現在の価値によって決定される。いったん創造された価値に対して、もはやコストはない。それには、ただ価格があるだけだ」。 しかしながら、明瞭に理解されなければならないのは、これが、問題にせまる二人の作家の異なる思索の筋道を対比させる、単なる試みであることだ。このようにして、ダグラスが購買力を増大させることで“賃金コスト”と価格とのギャップを埋めることを提示しているとはいえ、その違いは、賃上げという形で、賃収入者に対して為されないかもしれない。その一部は、現存する商品の価格安という形で、そして一部は“国民配当”として、一律に配布される形を取るだろう。また彼は、賃金が次第に購買力分配の重要な要素ではなくなるだろう、と考えている。そして、これは重大なことだが、昨年、グラスコー・イブニング・ニュースで発表したスコットランド・スキームのなかで、対策は、賃金割合の減少のために立てられた。 シュタイナーの学説の、倫理的な響きを感じ取ることは容易である。その経済的必然性、もしくは、今日の世界の財政的困窮の根源にある、注目することの無かった慣習を看破するのは、容易なことではない。とにかく私には、ダグラス少佐の考えによって、それが可能となる。私にとって、コストと賃金に対する二つの見方の違いは、その類似点よりも顕著ではない。そしてこの問題と、資本償却の問題に対する彼らの処置のなかにも、この二人の作家の関連は見いだされ、理解される。 私は、この論説の領域が、その関連に限定されたものであることに注意して締めくくらなければならない。これは二つの制度、もしくは経済学を解説しようとしたものではない。そして、この長さの論説に対して、そのような要求は全く不条理であろう。 出典:ANTHROPOSOPHY, A Quarterly Review of Spiritual Science. No. 3. MICHAELMAS 1933/ Vol. 8. London: Anthroposophical Publishing Company UK/NY. 【1】 当然、これらの物のうちのどれかが資本であるというのは正しくないということになる。資本とは無形の何かであり、他のものに取って変えることができる。信託基金が良い例だ。基金は、資本と同一視できる単一のユニットとして存在し続けるが、その資産の構成は売買によって絶えず変換され得るだろう。 【2】これは、工場が生産して販売する商品の最少総計価格のことである。需要と供給の法則を念じることが好きなものたちによって、最少総計価格というものがあるということが一般に忘れ去られている。これは、需要と供給の法則にまさる最下限であり、需要と供給の法則はもはや真実ではない。 【3】簡潔さのために利益は省略されている。あるいは利益は生産コストの一部と見なしてもよい。 【4】しかしながら、この対比が先日のロンドン経済会議に於いて頻繁に引き合いに出された、経済的愛国主義と国際協調主義の対比と関係があると考えられるべきではない。例えばルーズベルト大統領の賃金の概念は、偽善的な高利貸したちの標語よりも、世界が真の構成単位であるという経済理論とより一致している。彼らは会議に於いてルーズベルトを、計画を台無しにするといって非難する。しかしこれは、生産に資金供給するための、彼自身の借入計画が、アメリカに恒久的な利益を齎すことができる、という意見を仄めかすものとして捉えられるべきではない。

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