通貨の新たな理論のとき 

エレン・ホッジソン・ブラウン著 (2010/10/31)

私たちの金融システムが、(現在私たちが戦っているよう な)不況の周期的な波とともに定期的に問題に陥る理由は、銀行業と信用の役割だけではなく、通貨の本質そのものに対する欠陥のある認識に因るものであろ う。経済の成長期において、私たちは通貨を関係性から独立したなんらかの“モノ”として見なし、助長してきた。しかし今日、金や銀は私たちの通貨を裏付け てはいない。その代わりに、通貨は銀行によって貸付けが行なわれるときに創造される。(これには連邦準備券やドル札が含まれる。これらは民間の銀行法人である連邦準備銀行によって創造され、経済主体へと貸付けられる)。事実上、今日のすべての通貨は信用、もしくは負債に由来しており、それは将来に支払うという単なる法的契約である。


【関係性としての通貨】
オーストリア学派のレビューにある【vol.14:4, P.267~317, 2001年『信用と通貨の一般理論にむけて』という啓示的な論文のなかで、モスタファ・モワニ氏(オクラホマシティ大学経済学教授)はこう論じる。「通貨が真に“商品”や“モノ”であったことは一度としてない。それは常に単なる“関係性”、法的契約、信用/債務整理、負債の承認、そして返済約束である」。

通貨は商品であるという観念は、貴金属コインの使用に遡ることができる。金は最も古く、最も安定した通貨として認められていると広く主張されるが、これは実 際には正確ではない。通貨は金貨とともに始まり、洗練された会計制度へと進化したのではない。それは会計制度として始まり、そして貴金属コインへと発展し たのだ。“勘定単位”(支払い済みと未払金の総計の記録)としての通貨は、“価値の保存”としての通貨(“商品”もしくは“モノ”)よりも2000年前に さかのぼる。シュメール、エジプト文明は、こうした会計記入による決済方式を使用しており(幾つかの文明が金を使用しているように)数百年間持続しただけ ではなく、数千年間にも及ぶ。彼らの銀行のような古代の決済システムは、今日、公共サービスとして法廷、図書館、郵便局が運営される様に、政府によって運 営される公共システムであった。

古代シュメールの決済方式では、品物は重量によっ て価値が与えられ、品物単位で互いに測定された。重量の単位は「シェケル」であり、もともと硬貨であった何らかではないが、標準的尺度であった。それは大 麦という単語であり、元来の計量単位が穀物の重量であったことを思い起こさせる。これは重量によって、他の商品に相応する価値を持っていた。(同数の小麦 のシェケル、同数の牛、同数の銀のシェケルとは等価であった、等々)。主要な商品の価格は政府によって固定されていた。バビロンの王で立法者であるハムラ ビは、これらの計算表を詳細に定めた。利子も同様に固定され、不変であり、経済的生活を全く予測可能なものとした。

穀物は穀倉に貯蔵され、穀倉は“銀行”の一形態として役目を果たした。しかし穀物は腐りやすいものであったため、最終的に銀が支払うべき総計を表す標準的な 割り符となった。農夫は市場へ行き、彼の腐りやすい商品を銀と交換することができ、そして都合のよいときに、必要に応じた他の商品をこの市場の信用で買い 戻すことができた。しかし、これは依然として単純に債務の割り符であり、これに対して後払いをする権利であった。最終的に、銀の割り符は木製の割り符とな り、紙の割り符となり、そして電子の割り符となった。


【信用革命】
金貨 による問題は、貿易の要求を満たすための拡大が不可能であったことにあるだろう。中世の銀行家たちから進歩した革命家は、フレキシブルな通貨供給を創造す ることに成功し、勢い良く膨張する重商主義の貿易と足並みを揃えることができた。彼らはこれを預金者の口座に貸越金を支給することで創造する、信用貸しの 利用を通して行なった。のちに「部分準備制度」(信用創造)と呼ばれることになる方法の下で、銀行家たちは実際に所有する金の量よりも多くの銀行券と呼ば れる紙の受領書を発行したのだろう。彼らの海運業の依頼人たちは、製品とともに出航し、銀や金とともに戻ってきて清算をおこない、銀行家たちの帳簿の収支 を合わせることを可能にした。このように創造された信用は、急速に膨張する経済のもとで、大きな需要があった。しかし、通貨は“モノ”(金)であるという 推定に基づいていたため、銀行家たちはペテンに携わらねばならず、周期的に彼らを問題に追い込んだ。彼らは、顧客のすべてが一斉に金を引き出すことはない だろうという危険な賭けを行なっていたが、彼らが計算を見誤るか、人々が何らかの理由によって疑念を抱いたときには取り付け騒ぎが発生し、金融システムは 崩壊し、経済は不況に落ち込むこととなった。

今日、もはや紙幣は金に償還すること はできないが、通貨は依然として“モノ”として見なされ、それは信用が貸付けられる以前に“ある”ものとして見なされている。銀行は今まで通り銀行信用を、前貸しすることによる信用創造に携わっており、それは借り手の口座の預金となり、小切手となる。しかしながら、彼らの支出分の小切手が整然と清算され るために、銀行は、彼らの顧客が預金した通貨のプールから借り入れねばならない。もし十分な預金がなければ、彼らは金融市場、もしくは他の銀行から借り入れなければならない

イギリスの作家、アン・ ペティフォアはこのように指摘する:

『実体経済に貸出を行なうマシンとして働くという、銀行制度本来の目的は機能しなくなっている。その代わりに銀行制度の目的は逆に向けられて、借入マシンとなっている』。

銀行は低金利資金を吸い上げ、返還するにしても、高金利にして返還する。銀行は通貨の蛇口をコントロールし、小口の参加者への貸付けを拒否することができ、 彼らのローンを債務不履行にすることで巻き上げて、大口の参加者に、基礎となる純資産を買い占めるための手段として低金利クレジットを提供する。

これが現行スキームにおける、一つの制度上の欠陥である。その他では、銀行のローンを支援する借入金は、通常、短期ローンである。ジミー・スチュワートの 『素晴らしい人生』の貯蓄貸付組合のように、銀行は“長く貸付ける為に、短く借り入れる”。そして金融市場が突如として干上がると、銀行は大変なことにな る。これが2008年の9月に起こった出来事である。2009年2月に下院議員のポール・カンジョルスキーがC-Span*で述べたところによると、5兆5000億ドルの取り付け騒ぎが金融市場に起こった。(*政治を専門とするケーブルチャンネル)


【証券化:金ではなく家をもとにした貸付金の貨幣化】
金 融市場は大口の機関投資家たちが資金を預ける“影の銀行システム”の一部である。影の銀行システムは、現在、預金取扱機関に課されている資本および預金準 備率*を銀行が回避することを容認する。帳簿記載とは別に貸付金を動かすことによって。大口の機関投資家たちが影の銀行システムを利用するのは、従来の銀 行システムでは、25万ドルまでの預金しか保証されず、大口の機関投資家たちは日常的にあちこちへと移動させるためにそれよりも多く保有しているからだ。 金融市場はとても流動的であり、それは“証券化”、もしくは何らかの有価証券によって担保され、連邦預金保険会社の変わりに保護する。しばしば、不動産担 保証券で構成される担保物件、米国の不動産の証券化単位は、切り分けられてパッケージされた“ソーセージ型”となっている。
(*市中銀行の保有預金の内法定割合を高流動性資産で保有させる制度。実際には連邦準備銀行に無利子で預け入れさせる)。

17世紀には金も同様に幾度となく貸付けられた。同じ家が同時に幾つか別々の投資家グループによって“担保”として抵当にいれられた。このことはすべて、 MERS*と呼ばれる電子のカーテンの裏で為されている。これは、複数によって共有された家屋をごちゃ混ぜにすることで、地域的な登記法を回避しながら、 所有者をすばやく入れ替えることを可能にする。
(Mortgage Electronic Registration Systems, Inc. - 米国の抵当権付き住宅ローンの新株引き受け権と所有権の運用を辿るためにデザインされた電子登録を運営する非公開企業)。

しかしながら17世紀と同様、一つ以上の投資グループが 同時に担保権を行使しようとしたとき、計画は問題に陥る。そして証券化モデルはいまや、数百年続く州の不動産法の固い岩に衝突している。これには、銀行が 直面することの無かった、確実な必要条件がある。もしかれらが、不動産担保証券の税法に応じるならば、取り組むことができない。【これについての更なる情報はこちら】)

銀行家たちは大規模な詐欺に等しいことに携わってきた。やむを得ずではなく、彼らは商品(この場合は不動産)を担保して提案するために必要であったという理 由で犯意とともに着手したからだ。(拒絶されるはずがないけれども)。これが私たちのシステムに取り付けられた手段だ:銀行は実のところ、信用を創造して 私たちに貸し出してはおらず、償還するために私たちの将来の生産性を当てにしている。かつて行なった、欺瞞的であると同時に機能的外観の部分準備貸出とい う方法で。それどころか、彼らは私たちのお金を吸い上げ、高利でそれを私たちに貸し戻している。影の銀行システムのもとで、彼らは私たちの不動産を吸い上 げ、年金基金と投資信託に複利で貸し戻している。果ては数学的に不可能なねずみ講であり、本質的な制度欠陥の傾向がある。


【公共信用の解決】
現行の制度的欠陥は、いまや大手のメディアによって露わにされており、落下していくのも無理は無い。疑問は、そのとき何に置き換えるかということになる。私たちの経済的発展のために、何が合理的に導入されるだろうか?

信用が最初にくる必要がある。私たちはコミュニティとして、ポールに返済するために、常にピーターから借りているといった、複利で、一種のねずみ講に携わる こと無く、私たち独自の信用を創造することができる。私たちは、公共の信用制度、コミュニティ・メンバーの将来の生産性に基づいた取引システムに基づい て、私的に発行される信用の落し穴に陥ることを避けることができる。露にされた、不安定なペテン、秘密裏にシャッフルされた“モノ”による保証ではなく。

最もシンプルな公共信用のモデルは、電子地域通貨システムである。例えば、“フレンドリー・フェイバー” と呼ばれるものについて考えてみる。このインターネット・コミュニティに参加するために、現在、民間銀行制度から要求されるように、資本基金や準備基金か ら始める必要はない。そしてまた、メンバーが既に存在している通貨のプールから、所有者に対して利子を支払って借りる必要もない。メンバーは単に、自分の 口座の借方に記入し、誰かの口座の貸方に記入をするだけで、独自の信用を創造する。もしジェーンがスーにクッキーを焼き、スーがジェーンの口座の貸方に5 フェイバーと記入し、自身の口座の借方に5と記入したとする。彼らは銀行がするのと同じ方法で通貨を“創造”したことになる。しかし、結果はインフレを誘 発しない。ジェーンの+5はスーの−5と釣り合いを保つ。そしてスーが彼女の負債を、誰かに対して何らかを行なうことで弁済すれば、すべてが差し引かれ る。これはゼロサムゲームだ。

地域通貨システムは、小規模ではとても実用的になり えるが、国民通貨と交換を行なわないため、大規模なビジネスやプロジェクトに対しては制限されすぎる傾向がある。もし地域通貨が実質的に大規模に発展する ならば、小規模な地方を苦しめる、一種の為替レートの問題に突き当たるだろう。地域通貨は基本的にバーターであり、じっさい大規模な信用の促進するために は設計されていない。

地域通貨システムに相当する機能は、公共所有の銀行をつくる ことによって、国民通貨の使用でも達成できる。銀行業をコミュニティの利益のために働く公共事業へと転換することによって、中世的な銀行家たちによって保 持されていた拡張可能な信用制度の利点は、同時に、民間銀行の計画にありがちな、コミュニティへの寄生的な搾取を退けていく。コミュニティによって生成された利益を、コミュニティへと還元することができる。

国民通貨で信用を生成する公共銀行は、コミュニティやどんなサイズのグループによっても設立できるだろう。しかし、資本、預金準備、そして他の厳重な銀行法がある限り、州(政府)は最も適した選択である。州は共同所有者の支払能力を脅かすことなく、こうした必要条件を容易に満たすことができる。

資本として州銀行は、様々な公共基金として貯蔵された資金を使用することができるだろう。この資金は使い果たさなくてもよい。それはただ、現在資金が預けられているウォール街への投資を、州の所有する銀行へと移し替えるだけで可能である。ここに、州立銀行がとても健全で、有利な投資になり得ると判明した先例がある。現在のところ国内で唯一の州立銀行である、ノースダコタ銀行はAAに格付けされ、最近では利益の26%を州に返還した。この選択肢を模索し、実行する脱中央化の動きが、アメリカ合衆国内で広がっている。【更なる情報はwww.pubilc-banking.com.】

私たちは新たな明瞭さを伴って金融危機から浮上する。今日の通貨は純粋な信用である。信用が銀行によって促進されるとき、銀行がコミュニティによって所有さ れるとき、そして利潤がコミュニティに還元されるときに、その効果は、財政の機能的で効率的な、持続可能性のあるシステムとなることができる。

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