ロウソクを吹き消すがいい。もう夜が明けたのだ

蝋燭を持って歩きながら、 私はある子供に、 「この光はどこから来たか?」 と訊ねた。 その子は、即座に蝋燭を吹き消した。 「僕に光が何処へ行ってしまったか教えよ。 そうしたら、それが何処から来たかあなたに教えてあげるよ」

2 件のコメント:

  1. 匿名1/16/2015

    イマーム・アリー!
     「ああ 吾といい 汝という
      だがこういえば 神が二つになるものを!
     吾は神!」
    とか言って、スーフィーのハッラージさんは処刑されたけれど、
    個人的には正しいことをおっしゃっているように思う。
    仏教徒に近い発想に見える。
    神さまや法との差を取っ払っていくと、「吾」と「汝」が重なってくる。
    このような考え方は、世俗的な常識と両立しないので攻撃されてしまう。
    たとえばダニエルさんはライオンに殺されたけれど、
    法と吾の差を取っ払ってゆくと、ライオンに殺されることは天意=吾となり、
    法と一体化した人は辛くて悲しいことには違いないけれど、納得がゆくことだと思われる。
    吾が考えたことがそのまま天が考えたことになるし、天が考えたことが吾が考えたことと
    等しくなる。
    そんな考え方は普通の人に受け入れられるわけがない。
    難儀なことである。

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  2. 井筒俊彦さんが「文節論」を通して解説したイブン・アラビーの存在一性論は、禅の向上道、下降道と、ファナー(消融)、バカ―(はなんて訳していたかなぁ。戻ってくること。)の類似点を挙げています。「山がある。川がある。花がある」と文節化された世界から、ファナーを通して、文節が取り払われていく。消融した世界から戻るバカ―を通して、今度は、「存在が花する」と認識の土台そのものが変化した世界が現れる。スーフィーは妻帯や世俗生活を重視しているようで、確かに、ファナーのみでよいのならば、初めから人間として存在する必要はないのかも。そちらのほうが楽しそうなんですけど。

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