イマーム・アリー! 「ああ 吾といい 汝という だがこういえば 神が二つになるものを! 吾は神!」とか言って、スーフィーのハッラージさんは処刑されたけれど、個人的には正しいことをおっしゃっているように思う。仏教徒に近い発想に見える。神さまや法との差を取っ払っていくと、「吾」と「汝」が重なってくる。このような考え方は、世俗的な常識と両立しないので攻撃されてしまう。たとえばダニエルさんはライオンに殺されたけれど、法と吾の差を取っ払ってゆくと、ライオンに殺されることは天意=吾となり、法と一体化した人は辛くて悲しいことには違いないけれど、納得がゆくことだと思われる。吾が考えたことがそのまま天が考えたことになるし、天が考えたことが吾が考えたことと等しくなる。そんな考え方は普通の人に受け入れられるわけがない。難儀なことである。
井筒俊彦さんが「文節論」を通して解説したイブン・アラビーの存在一性論は、禅の向上道、下降道と、ファナー(消融)、バカ―(はなんて訳していたかなぁ。戻ってくること。)の類似点を挙げています。「山がある。川がある。花がある」と文節化された世界から、ファナーを通して、文節が取り払われていく。消融した世界から戻るバカ―を通して、今度は、「存在が花する」と認識の土台そのものが変化した世界が現れる。スーフィーは妻帯や世俗生活を重視しているようで、確かに、ファナーのみでよいのならば、初めから人間として存在する必要はないのかも。そちらのほうが楽しそうなんですけど。
イマーム・アリー!
返信削除「ああ 吾といい 汝という
だがこういえば 神が二つになるものを!
吾は神!」
とか言って、スーフィーのハッラージさんは処刑されたけれど、
個人的には正しいことをおっしゃっているように思う。
仏教徒に近い発想に見える。
神さまや法との差を取っ払っていくと、「吾」と「汝」が重なってくる。
このような考え方は、世俗的な常識と両立しないので攻撃されてしまう。
たとえばダニエルさんはライオンに殺されたけれど、
法と吾の差を取っ払ってゆくと、ライオンに殺されることは天意=吾となり、
法と一体化した人は辛くて悲しいことには違いないけれど、納得がゆくことだと思われる。
吾が考えたことがそのまま天が考えたことになるし、天が考えたことが吾が考えたことと
等しくなる。
そんな考え方は普通の人に受け入れられるわけがない。
難儀なことである。
井筒俊彦さんが「文節論」を通して解説したイブン・アラビーの存在一性論は、禅の向上道、下降道と、ファナー(消融)、バカ―(はなんて訳していたかなぁ。戻ってくること。)の類似点を挙げています。「山がある。川がある。花がある」と文節化された世界から、ファナーを通して、文節が取り払われていく。消融した世界から戻るバカ―を通して、今度は、「存在が花する」と認識の土台そのものが変化した世界が現れる。スーフィーは妻帯や世俗生活を重視しているようで、確かに、ファナーのみでよいのならば、初めから人間として存在する必要はないのかも。そちらのほうが楽しそうなんですけど。
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