無題

・・・たとえば、夕方家へ帰って、子供に与える食物すらないとき、私はすぐさまきびすを返して食物を探しに外へ出る。だが、ふと気がつくと、おどろいたことに、外へ出て食物をさがしはじめたとたんに、また世界観的な思索に没頭しているのである。わたしは、自分たちだけの食物について考えていたのではなく、食物一般を、その時点における世界中のあらゆる国のあらゆる状況下にある食物について、それがどのようにつくられ、食膳にならべられるか、食物を買えない人達はどうするか、あらゆる人が食べたい時に食べることができ、そのような愚劣な問題に時間を浪費しなくてすむようにする方法がなにかあるのではなかろうか、といったようなことを考えていたのである。たしかに私は妻や子供をかわいそうだと思ったが、同時に又、飢饉に苦しんでいるベルギー人やトルコ人やアルメニア人はいうにおよばず、ホッテントット人やオーストラリア奥地の住民に対しても憐れみをおぼえた。人類に対して、人間の愚かさと想像力の欠如に対して、憐れみを感じた。食べるものが無いということ自体は、さほど悲しいことではなかった。私をひどく当惑させたのは、おそろしい町の空虚さであった。いずれも似たりよったりの荒涼とした家々、陰鬱な空虚な外観、軒下の美しい敷石、通りのアスファルト、やけに上品ぶった茶褐色の砂岩の石段。しかも、その高価な物質の上を、一人の男が一片のパンを求めて歩き回っていることもあった。それが、その不調和が、私を困惑させたのである。腹がすいたら、小さな鐘を持って外へ飛び出し、こう叫ぶことができたら、どんなにいいものだろう、と私は考えた。「おおい、おれは腹がへってるんだ。誰か靴を磨かせてくれないかね。ゴミを捨ててもらいたい人はいないかね。下水管を掃除してもらいたい人はいないかね」街へ出て、そんなふうにはっきりいえたら、どんなにいいかしれない、と思うことがよくあった。しかし、それができないのだ。そんなふうに叫ぶ勇気もないし、また、もし街を歩いている男に、おれは腹がへっているのだと言ったら、相手はびっくりして逃げ出してしまうだろう。その点が私は理解できなかった。いまなお理解できないでいる。もしだれかが近づいて来て、そう言ったなら、イエスと答えてやればいいのだ。ただそれだけの、きわめて簡単なことなのだ。もしイエスと答えられなかったら、その男の腕をとって、ほかのだれかに、助けてやって欲しいと頼めばいい。一片のパンを手に入れる為に、なぜ軍服を来て、見ず知らずの人々を殺さなければならないのか、私にはわからない。私が考え巡らしていたのは、そういうことであって、だれの口にパンが入るかとか、それがどれだけの値段かというようなことではなかった。なぜ私がものの値段などにかかずらう必要があろう?私は、計算するためではなく、生きるために、こうしているのだ。ところが世の俗物どもは、まさにそのことをー我々が生きる事をー欲しないのである!彼らはわれわれに数字を計算しながら一生を過ごさせたがる。彼らにとっては、その方がわかりがいいからだ。合理的であり、理性的であるからだ。もし私が支配者になったら、物事はあまり秩序正しくは運ばないだろうが、しかし、そのほうが、ずっと楽しいに違いない。われわれは、くだらないことに腹を立てる必要がなくなるだろう。ことによると砕石歩道や流線型の乗用車やラウドスピーカーやその他もろもろの機械器具がなくなり、窓にはガラスさえなくなるかもしれない。われわれは地べたにに寝なければならなくなるかもしれない。フランス料理もイタリア料理も支那料理もなくなるだろう。人々は忍耐心を使い果たして、お互いに殺し合うかもしれないが、刑務所もなければ警官も裁判官もいなくなるだろうから、だれもそれを止めようとしないだろう。法律などという七面倒くさいものもなくなり、したがって内閣や立法府もなくなるだろう。われわれは方々へ旅行するのに数ヶ月あるいは数年かかるかもしれないが、どこの国にも登録されていないのだから、旅券や査証や身分証明書などはいっさい必要がなくなるだろう。また、特定の名前も必要とせず、名前を変えたければ毎週でも変えられるだろう。なぜなら、われわれは身につけているもの以外は、なにも持っていないだろうし、すべてが自由に手に入るとすれば、物を所有しようとはしないだろうから、名前なんか、どうでもさしつかえなくなるのだ・・・ (ヘンリー・ミラー 南回帰線より)

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