ノースダコタ銀行について:州外支配 -マシンを打ち破る

州外からの支配 -マシンを打ち破る

州になるまでの准州に対する保護期間は通常は短い。(およそ数年間だけ)。ダコタ準州の州への昇格は、主に州外権益による反対によって28年間延期された。こうして州への昇格を求める戦いはノースダコタ州の特徴に、経済的植民地主義への反抗という原型と、地元の事柄に対する州外からの干渉への深い不信感を据えた。

1880年代には地元の政治家、アレクサンダー・マッケンジーがノースダコタ政界のボス・トウィード*であった。マッケンジーはノーザン・パシフィック鉄道の政治におけるエージェントであり、州資本の配置から州最高裁判事の任命に至るすべての政治決断を請け負い、鉄道会社に対して有利に取りはからった。(マシン政治を展開した悪名高いタマニーホールのウィリアム・M・トウィードの通称。「タマニー・ホール」といえば票の買収操作の代名詞であった。)

ノースダコタが長期の遅延の末に州への昇格を成し遂げた後、州は財政を安定させるために苦戦を強いられた。1890年から1901年の間に、豊作の年はたった4年間に過ぎなかった。そして鉄道会社は州内の土地の四分の一近くを所有しており、納税義務を怠っていた。

州外権益による経済支配のもとで擦り切れていき、ノースダコタ農民同盟は自立を試みたが、マッケンジー・マシン(集票組織)は事実上の改革がなされるのを阻んだ。

世紀の変わり目には大きな改革運動が合衆国で吹き荒れた。改革者たちは民主主義を実際に機能させ、有力な政界のボスの権力を打破し、トラストと独占を抑制し、法規制を通じて社会問題を解決しようと試みた。進歩党の候補者、セオドア・ルーズベルトとロバート・ラ=フォレットに対するノースダコタの有権者の支持は情勢変化の合図となった。

1906年、アレキサンダー・マッケンジーが汚職事件に巻き込まれたことを受け、ノースダコタの改革者たちはマッケンジー・マシン(集票組織)の権力を打破し、州の経済的興廃の真のコントロールを手にする時が来たと確信した。それには4年間を要したが、1910年には進歩党の候補者たちは重要な選挙で勝利しはじめた。“オーネスト・ジョン”・バーク*はマッケンジーの子飼いの知事候補を打ち破った。そして初めて進歩党は下院と上院の両方の議席をおさえた。(John Burkeのニックネーム。1907〜1913年までノースダコタ州知事を務める。Honest Johnは正直者の意。)

1911年の州議会で進歩党の全面的な改革政策が通過し、超党派連盟として知られる政治的な“大草原の野火”が登場する土台を作った。

http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/breaking_the_machine.html

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