州外からの支配 -経済的搾取
進歩党が促進した社会、政治改革の成功にも関わらず、州は依然として州外権益による経済支配の元に置かれていた。政治的リーダーによる鉱業、製造業を興す試みをもってしても、ノースダコタの経済は依然として危険なまでに小麦に依存していた。不幸にも、仲介業者がノースダコタの小麦の格付けと相場を決定しており、彼らと協同する鉄道会社が運送コストと輸送計画を取り仕切っていた。ツイン・シティ*、シカゴ、そして東海岸の投資家たちは資本へのアクセスをコントロールしていた。(米国Minnesota州のSt. Paul市とMinneapolis市)
第一次大戦になっても、小麦農家はカルテルによって支配され続け、搾取され続けていた。彼らはそうしたカルテルが共謀し、彼らの収穫物の公正な市場を強奪していると確信していた。
米国東部の銀行家と投資家の手中に州の未来を委ねる不正商慣行に対して、ノース・ダコタの人々は他の州のどこよりも抗議の声を上げた。第一次大戦の終わりには最初の農家所有の協同穀物倉庫の設立とともに、最終取引業者と取引イベントが活動を開始し、やっとのことで外部の事業者から州の経済的なコントロールをもぎとった。
1915年にはノースダコタ州は反乱の準備が整っていた。アーサー・C・タウンリー。非常に熱心な読書家で、元教師、そして27歳のときに破産した農家であるタウンリーは社会主義を受け入れ、ノースダコタ州の社会党の最も成功したオルガナイザーの一人となる。
1900年から1915年のあいだに社会主義はかなりの成功を収めた。マイノットの市長は社会党員であり、同様にラグビーとヒルズバロの市長も社会党員であった。社会党は州全体に候補者をたて、ピーク時には8%ほどの得票を得た。彼らは出席者の多い集会を持ち、週刊新聞を発行して草の根活動の体制を築き上げた。
オルガナイザーとしてタウンリーは農家から農家へと訪問し、社会党の綱領について農民たちに話した。党の改革案(州立穀物倉庫、銀行、農産物保険)に対する多くの支持があるとはいえ、農民たちが党を嫌っていることを、彼は早期に思い知る。タウンリーは社会党という名を伏せて社会党綱領を伝えるために影の組織を設立し、実際に社会党に加わっていることを知らない加入者を募った。彼は驚くほどに成功した。社会党のリーダーたちは激怒し、タウンリーと彼が雇った3人のオルガナイザーを解雇した。
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/economic_exploitation.html
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