石巻

早朝、高速を降りて石巻を走ると、町並みはごく普通であった。家々も電柱も真っ直ぐ立っている。倒壊もしていない。ここが地震と津波の被害を最もこうむった場所のひとつだと聞かされなければ、ごく普通の町だ。石巻NPO連絡会議の本部が専修大学にある。キャンパスにはピースボートが使っている巨大な倉庫があり、ちょうどカナダのメディカル・チームとレスキューがテントを張っているところだった。また個人ボランティアのテントもグランドに数多く張られている。

日本財団、ピースボート、自衛隊の倉庫から救援物資を車に積み込む。水、米、味噌、パン、缶詰、カップヌードル、リンゴ、薬、カセットコンロ、ガスボンベ、電池、ろうそく、子供用・大人用オムツ、軍手、ゴム手、長靴、レインコート、などなど。。。

最初のアクションは、石巻市で最も津波の被害を受けた、湊町、川口町、明神町、大門町へ向かい、海水を避けて家の二階へ避難したまま、避難所などで把握されず、救援物資を受け取ることのできない人たちを一軒一軒まわって探し出しながら手渡していくというもの。市役所の職員は半数が流されており、生存者、避難者の把握はもちろん、物資の配給は滞っている。ここにきて津波の被害を受けた風景を始めて目にする。雪混じりの雨のなか、船と車がひっくり返って道路をふさぎ、多くの車はありえないところ、コンビにの店内、家の二階、線路上に転がっている。地盤が沈下したため、満潮時には海水がひざとくるぶしの間まで水が上がる。その中を自転車に乗るタフな被災者もいた。同じく町をローリングして物資を手渡すローリング部隊の一人、広島から軽トラックで駆けたボランティアのタイヤがパンクした。同じ型のフレームが見つからず、タイヤの交換はできず、もちろん修理できるところもない。そこで車をそこにおき、救援物資を取りに来てくれるように一軒一軒声をかけて回った。顔を落としながら、言葉もなく、袋をもって雪混じりのなか集まる人々は、亡霊のようでもあった。

その日の午後、居てもたっても居られず高知からきたコウセイ君と一緒に回ることになった。35歳くらいの彼は、北へ向かう途中で目にしたテレビの映像で、石巻に来ようと決めたと語っていた。彼の行動は非常に丁寧で、フェアで、よく考えられたものだと思った。彼は被害の酷い石巻市街を中心に家々を周り、一人一人になにが困っているかをききだし、倉庫へ戻り、携帯の充電器さえ探し出して手渡した。彼は最も不便しているだろうお年寄りの家を多く回った。組織的なボランティア・グループは最も困った人たちを見落としがちになる。炊き出しや救援物資を避難所などに届けても、それを手にすることのない人々はここにはいっぱいいるのだ。

二日目には女川へ向かった。ここの津波の被害は凄まじい。まるで大規模空爆で町ひとつが消えてしまったかのようだ。大きな船がかなり内陸のほうで転がっており、バスが公民館の二階にあったり、コンクリの建物が横たわっており、港から人家にかけては敢えて粉々に砕いたかのように破壊されている。20mくらいの高台に病院がみえるが、その病院の一階まで海水に浸かったといっていた。石巻もそうだが、この辺りの人々は子供のころから、いずれ宮城県沖で大地震があることを聞いて育っている。それゆえ防災の用意をしていたという人も多かった。地震のすぐあとに身一つで高台に逃げた人は助かり、車や徒歩で必要なものを手にして逃げようとした人たちは津波に飲まれた。

石巻と女川の違いははっきりしている。津波による破壊、倒壊の凄まじさからか、生き残ったほとんどの人たちは避難所におり、もともとの地域コミュニティが生きているため、誰が亡くなり、誰が生き残っているかはよく把握されており、救援物資の分配も区長さんなどの地域コミュニティのリーダーが取り仕切り、とりこぼれが少なかった。こうしたコミュニティの結束力は何にも増して変えがたいインフラとして機能しており、人々の顔にも心なしか安堵の表情が浮かんでいる。人間関係がすでに都市化されている石巻市街との差は明らかだ。

私たちは日本財団が仕切っている公民館のキッチンを寝床にしていた。日本財団は嫌いだが、いまは批判しているときじゃない。NPOの長い会議が終わった後に帰ってくると、寝床に集まったほかのボランティアの人たちといろいろと情報交換をした。八ヶ岳からここへきて、炊き出しの支援を避難所で行っていたチャン君は、泥や海水のなかから拾い集めた1円玉の入った缶を”ボランティアの皆さんで使ってください”といって手渡された。ボランティア活動に通じている兵庫から来た整体士の津田さんは、マスコミの記者は訓練不足だと怒っていた。マスコミは”なにが一番困っていますか?なにがいま、一番必要ですか?”と判で押したように”一番”しかきかないと。”見てわからんか?!あいつらは二番、三番はどうでもいいんや”といって怒っていた。なにもかも失った人々、家族や友人を失った人々に一番を聞いてどうするんだ。確かに。和歌山からきた小学校の先生は”そうですよね、家族を失ったのが一番に決まっているじゃないですか”といっていた。ここに個人的に集まったボランティアの人々の意識は高く、成熟している。

続く。。。

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