石巻2

石巻の市内のFM局が普段よりも遠くに放送を飛ばしていた。夕方、小道が流された車や倒壊した家々で塞がれた湊町を周っていたときに、FM石巻からカウンターテナーのAve Mariaが流れてきた。目の前には街灯が十字架のように斜めに地面に突き刺さっている。

一日目の作業を終えた後、雨と雪にさらされたレインコートとその上に着ていたスキー服をガイガーカウンタで調べた。総量は約43-69cpmといったところで、約2~3倍といっていいだろう。アルファ線を検出するデバイスでは0.安心した。これで放射能被害が加わってはここの人々はたまらない。土壌の放射線量は計測していない。29日には、被災者が飲み水にしていた湧き水から放射性物質が検出され、市が飲むのをやめるようにとの通達をだした。水道水では検出されておらず。今は北風だからこの程度で済んでいるが、春風が吹くころはこの通りではないだろう。

3日目に一緒になったのがやはり個人ボランティアのかたで、45歳くらいかな、ばりばりの広島弁であだ名は組長。やはり専修大学のキャンパスにテントを張って住んでおり、バイクでよく旅をする大工の彼のDIY能力は非常に優れている。彼もやはり、居ても立ってもいられずに石巻へ来た一人だ。私たちは海からすこし離れた住宅地へと向かった。ここでは家々は倒壊せずに普通に建っており、一見ごく普通なのだが電気、ガス、水道は通っておらず、また親戚、友人家族が港周辺から避難してきて一緒に住んでいる家も多い。一つの家に4~5世帯が避難していることもあった。家が普通に建っていて、個人的に避難をしている人々は避難所に登録していないため、見過ごされていることの多い地域。倒壊の激しいエリアとは別の問題がここにはある。オープンし始めるスーパーもあるが、朝から大行列、店に入るころには物はないという状態。道に歩いている人や近所を聞いて周って避難者を探し出す。一人の女性に、目の不自由な按摩さんや身障者のひとたちが避難している石巻サウナへ行ってくれと頼まれる。サウナのある場所へ行くと、そこはすでに炊き出しの場所になっており、物資の配布を行うセンターのようにもなっていて、ホッとした。そこの取り仕切りをしている60代の男性と話をすると、"ここはもういいから、大丈夫だから、海沿いのもっと酷い場所へいってやってくれ、頼む"、といわれた。

ここまで私は被災者たちがお互いに気遣い、思いやる美しい側面に触れてきたがもちろんそれだけではない。日がたつにつれ、そして今すぐに必要な食物が満たされてくると、日常へ復帰しようという欲望が当然のように湧いてくる。そして少しさきのことまで考えられるようになるとき、同時に貪欲や嫉妬、そして身勝手が顔をだすようになる。しかし誰がそれを責められよう。それは人間のもつ一側面でもあるのだ。一人の女性が貪欲に支援物資を求めたからといって、彼女の背中に何人の人々が、何人の家族がいるのか私たちは知らない。

自衛隊の倉庫には山ほどの物資がある。ひとつの巨大なテントにはカレー、また別のテントには米といった具合だ。ものすごい物資の量だ。しかし分配がうまくいっていない。パニックを恐れる彼らは、配布場所をアナウンスすることなく、ある日、ある場所で突然支援物資を配る。誰も知らないのに、誰が手に入れられるというのだろう?あの大量の物資はどうするつもりなのだろう?ここの自衛隊の倉庫にはだぶだぶの迷彩服を着た若い子たちがいっぱい配備されている。味噌を50箱取りにいったら、そんなに渡せないという。部隊の名誉にかかわるというのだ。なかなか正直でよろしい。もう少し年月を過ごせば、耳障りのいい理由をこさえる事ができるようになるだろう。

自衛隊であれ、ピースボートであれ、その他のボランティア団体に対してであれ、ここに集まる物資はまるでテレビの視聴者の感想が集まっているかのようだ。ある女性がインタビューで子供服が必要だといえば、数日後に子供服ばかりが届く。ある一人が個人的に必要な物資が大量に送られてくることがままあり、そのたびに倉庫はてんてこ舞いになる。


続く。。

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