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イラン:経済改革が事実上のベーシックインカムの到来を告げる / レポート:ハミッド・タバタバイ

Basic Income Earth Network
Flash News 63 November 2010
http://www.basicincome.org/bien/pdf/Flash63.pdf

ベーシックインカム、もしくは市民インカムのコンセプトはイランではほとんど知られていない。3年間近く行なわれた、政府の新しい経済改革を巡る論争と議論では、政治、研究、メディアからのベーシックインカムについての言及は一切なかった。そ れにも関わらず、ベーシックインカムの特質を装う、全国規模の現金譲渡計画が、今まさに始まった。約6千5万人のイラン人、もしくは人口の81%がたった 今、銀行口座に振り込まれた最初の給付、1人81万リアル(約81USドル)を受け取ったところだ。給付は二ヶ月毎に行なわれ、資力調査が伴われることはなく、無条件である。また、彼らは実施を進めていきながら、数年のうちに金額を2倍にするようである。残った人口の19%は、主にお金を必要としないという理由で、自発的にプログラムを辞退した。

これと同様に注目すべきは、斬新さがこれに尽きないないことにある。毎年かかる数百億ドルは、原油輸出や政府の財源から来るのではない。その現金譲渡は、様々な商品やサービスに今後国 が支払う予定であった上値から完全に資金が調達される。それらは主に石油製品で、この数十年間、巨額の補助金が拠出されてきた。(今までガソリンには1リットルあたり0.10ドルの出費、軽油は1リットルあたり0.02ドル以下を出費してきた。同様に、天然ガス、電気、そして水道料金やパンに対しても充てられてきた)。このような補助金は、中間所得層(人口の70%から30%へ落ち込む)よりも、はるかに富裕層の利益になってきており、結果として、食料 品やエネルギー資源の無駄な浪費、新技術に対する不十分な投資、環境汚染、それに加えて近隣諸国への密貿易に繋がってきた。この非効率で不公正なシステム を終わりにする為に、今年前期に『補助金対象法』が発令され、約5年をかけて、ほとんどすべての間接的、直接的な価格補助金を段階的に廃止させ、家庭や様 々な経済、社会分野に対する定期的な現金譲渡に置き換えられる。価格上昇規模はいまだ未知数であるが(2010年11月半ば現在)、これらは巨額に上るも のと見られており、場合によっては数倍になると見られている。公式発表では、11月後半に向けて新たな物価に直接影響があらわれると予測されている。

かなり興味深いことに、現金譲渡の普遍性と一様さは、実際に強く要求し続けたり、望んだ誰かがいたわけではなく、また政府サイドから、原案を前面に押し出し た誰かや、議会のなかで原案に対して反対し、廃案にならなければ、修正を求めるといった誰かがいたわけでなく、行なわれることとなった。それにも関わら ず、その意図はきっぱりと、住民の少数の富裕層の現金移転を目標とし、受益者を住民の所得規模の10分位数、一番下の2か5か7にするかといった駆け引きが行なわれた。そのうえ計画は、社会的公正のために低所得者により多くを支給するといったものであった。もし、結局のところ、登録する手間をかけた全ての人に同額が支給されることが決定されたのならば、それは単に、資力調査目標の大規模な実施が(1700万世帯以上の調査票が記入され、解析された)、その結果について募った国民の抗議として大失敗に終わったことによる。全ての人への同額支給の原則は、無理矢理そこに押し込まれた。なぜならそれはただ、その 状況下では理に適っていたからだ。そこには、フィリップ・ヴァンパライスが『シンプルでパワフルなアイディア』として特徴づけたベーシックインカムの劇的な弁明は、ほとんどない。

確かにイランの『現金補助金』(それが公式の名称である。)は、一般的に理解されている本格的なベーシックインカム配当としては不十分である。すべての世帯員の権限は、世帯主一人に行き、成人していても、個々の世帯員には行かない。この計画の持続期間は明記されていないが、原則的には国内消費のための原油の産出が、イランで可能な限りは続けられるはずである。資力調査目標は完全には放棄されておらず、政府が現在の試みよりも目標を定めたほうが役に立つと判断した場合、復活するかもしれない。権利に基づいた ベーシックインカムの土台は、現在のイランの現金配当についての談話からは聞こえてこない。支給は人権によって市民に付与される『所得』と看做されておらず、価格補助金の損失を補う、別のタイプの補助金と看做されている。(だがこれが実質的な違いを生むかどうかは、興味深い疑問である)。これらは、きちんとした生存所得に近づいてもいない。(5人家族の一ヶ月200USドルは、最低賃金一ヶ月分の3分の2である)。また何年も、時には数十年もイランに住んでいる2百万人以上に及ぶアフガンとイラクの難民を除外し、彼らは物価上昇の矢面に立たなければならないことになる。そして最後にいま一つ大事なことを述べるが、仮にも物価上昇が実施される日々の先々で影響を及ぼし、そしてもし、インフレが失態によって手に余るものとなれば、すべての体系が崩れ去るかもしれないという、本当の恐怖がある。

別の見方をすれば、これは、全国的なベーシックインカムに向けられた厳しい障害がすでに克服されたことの論証となるであろう。その計画は法律に明記されている。給付は普遍的である(十分裕福で、単に登録 を行なわなかったことによって権利を喪失したものは省く)。財源は保証されていて、中期的には持続することを目している。そしてもし改革が、政府が掲げた 消費パターンの合理化目標の達成、投資と有効性の増加、貧困の撲滅と減少のための所得の再分配に、ある程度成功したならば、彼らの未来はまさしく保証されるはずである。とりわけ、この大いに重要な社会政策の変更が、数ヶ月、数年に渡って繰り広げ、進歩する精密で、包括的、連続的な影響評価にさらされれば、 この計画の継続はまた、その欠点が見分けられ、修正されることを可能にする。

前人未到の領域と範囲における、現金譲渡システムによる価格補助金の置き換えが為されたイランは、全国的なベーシックインカムに向けて前進するすべての国々の最先端に置かれた。このような移行が、多くが推測していた北ヨーロッパの先進国ではなく、発展途上の、中東の、イスラム教国家でなされたという事実は、 ベーシックインカムのコンセプトが、広範囲の国々に対して妥当であることを強調する。イランの経験の特殊性は無視されるべきではない。それは大部分、国内の石油資源と並外れて歪んだ価格設定政策の複合的な可用性が可能にし、それどころか、解決の一環としての事実上のベーシックインカムの出現は、ほとんど必然的ですらある。しかしこのモデルは依然として他の国々にとって何らかの妥当性をもつだろう。特に鉱物を産出している国々にとって。また巨額の補助金を拠出している国々が、追加の課税なしに補助金を他のルートに切り替える智慧と実現可能性として、ベーシックインカムの供給を探る機会となるかもしれない。もし彼らが適切に描かれ、確信させるならば、イランの経験は幅広い適用性についての知恵を提示することとなるだろう。

このテーマに関する更なる情報は、次回のベーシックインカム・スタディーズ(Basic Income Studies)の、ハミッド・タバタバイによる『ベーシックインカム:イランの補助金制度改革への道』を参照するか、hatmtab@gmail.comへお問い合わせ下さい。

ユートピアとは全ての人への自由なお金

http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/fd20101017bj.html
 2010年10月17日(日)ジャパン・タイムズ マイケル・ホフマン
科学的にも技術的にも、世界は絶え間なくカオスに接している。毎日あらたな何かが齎される。新しい発見、新しい装置、新しい技術、新しい救済。 変化の速度は目眩をおこさせ、私たちは辛うじて、自分たちがどこに居るかを知る。昨日の新案は、今日の標準、そして明日の時代遅れだ。

その他の領域に於ける、人類の試みの知的麻痺は目立って対象を為している。19世紀の資本主義は私たちの経済を支配し、19世紀の民主主義は私たちの政治を 管理する。私たちのほとんどにとっての精神的な滋養物は、幾世代もの昔の宗教に頼っている。修正は加えられてきたものの、激変ではなかった。驚くべき新た な政治、経済、宗教、もしくは哲学の概念について、最後にあなたが聞いたのはいつのことだろう?
私たちがここで考慮する理念は、衝撃的なものだが、実はそれほど新たなものではない。ただその社会的地位が、ゆっくりと育ってきたというだけである。変わり 者や予言者は数世紀に渡ってそれを扱ってきた。最近知られるようになったその名称は、あなたの注意を引くつけるために名付けられたものではなく、むしろほ とんどそうならないようにされてきたように見える。『ベーシックインカム』:誰がここに潜在的な革命を見るのだろう?

それでも、それは表面ぎりぎりのところにある。「このトピックに関する、世界中の幅広い情報に基づくディスカッションを育む」ために1986年に設立された ベー シックインカム・アース・ネットワークが、そのウェブサイトで唱える、ベーシックインカムの定義とは、「すべての個々人に、就労や資力調査をすることな く、無条件に支給される」というものである。このシンプルな短い一文は、聖書にある「お前は顔に汗してパンを得る」から、厳然たる20世紀の怠け者に対す る警告、「ただより高いものはない」に至る、私たちが社会通念としての千年王国として知り、考えてきたすべてに対して無邪気に反抗する。

その社会通念は間違いであったのだろうか?

ベーシックインカムは空想的に聞こえる。確かに。トマス・モアは1516年の『ユートピア』にそれを予示している。 彼の想像上の理想的な島への虚構の航海は、窃盗犯の絞首刑という英国の習慣に対する痛烈な批判であり、そのなかで「すべての人々に何らかの生存の手段を与 えることは、遥かに要領を得たものであるでしょう」と言う。400年後、イギリスの哲学者、バートランド・ラッセルは(1918年の著書『自由への道:社 会主義、アナキズム、サンディカリスム』のなかで)“普遍的な最低限所得保障”を要求しており、それによって「一定の少ない所得、十分な生活必需品は働い ていようがいまいが、全ての人に保障されるべきである」としている。

フランスの経済学者で哲学者のアンドレ・ゴルツ氏は(1989年の著書『経済的理由の批判』のなかで)、私たち自身の時代の観点から状況を説明する。「“より以上”と “より優れた”との間の関係は断たれている」と彼は主張する。「多くの生産物とサービスに対するわれわれの必要性はすでに十分に満たされており、そして多 くの未だわれわれが不満とする要求は、より多く生産することでは満たされないが、異なる生産、あるいは安定した生産に抑えることで満たされるかも知れな い。これはわれわれの空気、水、空間、静寂、美、時間と人との接触の必要性に関してはとりわけ真実である」。彼が描き出す結論とは「このような状況におい て労働倫理は発展の可能性を止め、労働ベースの社会は危機に投げ込まれる」。モラルとしての労働の概念は、社会の実質的な支柱であることに加え、私たちの ほとんどに深く根ざしており、疑問に感じること自体が困難であるように思える。 革命と革命的なアフォリズムの父であるカール・マルクスでさえ、「必要に応じて受け取る」前に「能力に応じて働く」ことを要求する。

しかし、新たな時代は古い確信を侵食する。空想的な左翼の住処ではない「週間エコノミスト」は9月21日発行のなかで、ベーシックインカムに9ページを捧 げ、 共感を寄せた取り扱いをしている。重要なポイントは、ワーキングプアーの衝撃的な急増である。40年前、貧しい暮らしをしていた7歳の日本の子供は、ハイ テクの予言者としてではなく、無知蒙昧な過去を思い起こさせる人々に、そしてその人々がグローバル化した未来にショックを受けるであろうと話す。これは実際に私たちの現在である。再治療をするどころが、貧困は広がり、病的で供給過剰経済のもとでの仕事は、安定した雇用と生活賃金を保障せず、この問題の解決 とはならない。

仮にすべてを認めても、仮に私たちが矛盾する前提を引き受けて学ぶことができ、生きていくことの単な る事実が、生命を維持するために必要な最小限の物資に対する権利を私たちすべてに与えるとはいえ、そのお金はどこから来るのか?もしも経済がワーキングプ アーを支えられなければ、非雇用の、更には仕事を探して得ようとしない、怠惰すぎるものを支えることはできるのか? 富裕層や超富裕層はいうまでもなく、完全なる普遍性というベーシックインカムの重要な信条のために。

それは可能だと経済学者・原田泰は「週間エコノミスト」のなかで主張する。彼はこのように算定した。「子どもたちと高齢者はすでに手当を受け取っているの で、私たちは人口の16歳から64歳の部分(おおよそ8100万人)についてお話しします。ひと月7万円をベーシックインカムの金額として、1年の総コス トは、8100万人×70000円×12ヶ月=68兆円となります。政府がその計画のもとで支払うのを止めると思われる、様々な控除や公共事業、中小企業、農家などへの補助金をそこから差し引きます。例えば、労働者の被扶養家族、配偶者に対して現在用いられている税額控除という要素も同様に。最終的には、ベーシックインカムにかかるコストはほとんどないといえるでしょう」と原田は主張する。

私たちは21世紀最初の、技術とは無関係な革命のふちにいるのだろうか? 

イラン:世界初の全国的なベーシックインカム導入寸前

http://www.basicincome.org/bien/pdf/Flash62.pdf

イランはベーシックインカムを導入する最初の国になろうとしています。この劇的な展開は、国際的な注目が小規模であったことと、ベーシックインカムの国際的なディスカッションが少なかったことという理由によるものです。

イランは、潜在的な燃料補助金の恐ろしく非効率的システムを廃止しようと試みています。世界の多くの石油を産出する国の一つとして、イラン政府は 一年に約70億ドルを原油輸出から得ますが、イラン政府の指導のもと、国有企業は多様な生産物を、ほとんどはガソリンですが、国際価格を遥かに下回る価格 で販売して、GDPの約30%にあたる、概算100億ドルを一年に失っています。このような、イラン国内の燃料消費の補助金制度のコストは、イランが海外 へ輸出する燃料によって得る収益を上回っています。

この補助金制度は、イラン国民が政府から受け取る主要な手当の一つであり、多くのイラン国民は、安い燃料とその他の商品に依存する形で成長を遂げ て来ました。 政府は、国民の痛手を弱めるための別のものを供給することなしには、補助金を廃止することができません。数年間の論争を経たのち、補助金からの撤退に向け て、唯一、現実的な代償の形態としてベーシックインカムが持ち上がってきました。

このようにして、裏口を通り、一般に国際的な論争で話し合われる争点をすり抜けて、ベーシックインカムはイランに到達しました。財源は、明かに非 効率的な補助金を省いたところから来ることになるでしょう。 お金は全ての人に行き渡らねばなりません。なぜならば、全ての人は補助金喪失の損害を被るでしょうし、国有企業を所有する等しい資格があるからです。お金 の目的は定められず、なぜなら政府は、目的が正確かどうかを確認する、必要な情報を収集する能力がないからです。

新法に従って、歳入の内の増収分の半分を他の行政サービスに使用し、他の半分の金額は直接、申請するすべてのひとびとの助成金として使用します。 完全な段階的導入の場合は、金額はひと月に1人60ドル(年にして720ドル)、もしくは、それ以上を供給する潜在的可能性があります。この見積もりは、 貧困ラインよりはるかに下回っていますが、しかし、これはとても重要な金額です。イランでは、一人当たりの年収が3500ドルであり、アラスカの一人当た りのGDP、42000ドルの10分の1以下です。7000万人近くが適格者になると思われるイランのベーシックインカムは、アラスカ配当を受け取る数の 100倍以上になります。二つの場所の生活コストの甚大な違いを考慮すると、イランでの720ドルのベーシックインカムは、アラスカ(US)に現在ある 1000〜2000ドルの配当よりも意義深いものでしょう。

現在の計画には欠点があります。すべてのイラン市民は助成金を得る資格がありますが、お金は世帯主に支払われ、そのほとんどは圧倒的に男性です。 従って、一部の男性が、かれらの妻、子供たち、そして扶養家族が、助成金を得られないようにする支配力を持つことになるかもしれません。また、イランに在 住する外国人(ほとんどがイラク、アフガンニスタン難民)は助成金を受け取ることができないにも関わらず、補助金の損失を他の住民と同程度に被ることにな るでしょう。

段階的導入は、2010年の9月と2011年の3月のあいだに始められる予定になっています。段階的導入がどの程度の期間かかるかは明確に示され ていません。法律はすでに通過しました。90%以上のイラン国民はすでに助成金を申請しています。しかし、イランの政治システムは混沌としており、いまだ なんらかの実質上の変化があるかもしれません。実際に行なわれるまで、私たちは正確に把握することができません。私たちにできるのは、ただ、成り行きを見 守ることです。

C.H.ダグラスの経済学とルドルフ・シュタイナーの経済学の関連について

C.H.ダグラスの経済学とルドルフ・シュタイナーの経済学の関連について オーウェン・バーフィールド著 http://www.rsarchive.net/RelAuthors/BarfieldOwen/barfield_economics.php 最近ロンドン局から放送された、C.H.ダグラス少佐とデニス・ロビンソン教授の議論は、世界が理解し始めたダグラス少佐の経済理論、その名に負う「社会信用」運動への関心の高まりを示している。イギリス人智学協会の多くのメンバーは、ダグラスの経済学とルドルフ・シュタイナーの経済学との、何かしらの関連を漠然と意識している。例を上げれば、ダグラスはその著作のなかで「社会三層化論」を引用する、数少ないイギリスの作家の一人である。彼はロンドン本部の協会で講演を行なったことがある上、イギリス人智学協会の数人のメンバーは長年、個人的に社会信用論に興味を抱いてきた。したがって、もし関連があるならば、誰かがどの様な関係があるのかを示してみると良いのではないだろうかと、そんな試みを今回の論説で行なってみようと思う。当然、著者には、司教座の前でそのような資格はないのだが。著者は確実な所見と結論に達した二人の生徒に過ぎなく、もちろん文責のすべては著者にある。 シュタイナーの経済学講座は、人間自身の本性は一方で自然、他方で精神の間の本質的両極性を持っているという概念に基づいて構築されている。これについては、彼の著書「社会三層化論」と共通している。ところが著書は、人間社会全体の中で本質的両極性が、どのように自身を表出するために努力しているかを明らかにしているが、経済学講座では経済循環に関して、生産と商品の交換に関してのみを扱う。それは主に「社会三層化論」全体の三分の一部分とだけ関係している。 しかし、その本質的両極性とその両極性から生じる三位一体性(trinity)は、(すべての純粋な有機生命体にあるように)社会構造全体におけるのと同様に、部分にも顕われている。そして経済学講座の最初の講義で、シュタイナー博士は極めて実り多い「経済的スペクトル」の概念について述べ、自然と赤外線を経済プロセスの一つの端に、そして精神と紫外線をもう一方に置くという類比を描きだす。純粋な経済プロセスは、この二つの間に位置し、それらの相互作用の結果である。それに続く講義でシュタイナーは、この作用の更なる詳細について述べる。どのように人間の精神が自然に作用し、商品や品物の生産を行ない、同時に、経済的価値を発生させるか、そして商品や品物自身が消費、腐朽に接し、再び自然へ還ることを通じて、経済的価値が無効化され破壊される、あるいは、されるべきであるかを教える。精神がこのように自然を変質させる一つの主要な手段、産業文明の特徴的な手段は労働の分業として知られるプロセスである。労働の分業とともに、半−精神の対象物として「資本」が実体となる。 資本とは機械類、建物、その他同類の実物資産といった様相を呈していて、それはマネーといった様相にも交換可能なものである。【1】具体的に言うとマネーとは商品であるが、しかし他の商品とは区別される何ものかがある。そしてそれは、「摩耗しない」と普遍的に容認された虚構である。摩耗するものから作られた貨幣の(素材としての貨幣はすり減るが)、額面上の価値がすり減ることはない。(そのように容認された虚構である)。それは永遠に続くと思われている。さて、これは収集して貯蔵することの出来る、ある商品の特徴であるが、もう一方で、これは永遠に商品であり続けるわけではない。(これも同様に特徴である)。適当な時期に蛾と蛆が世話をし、やがてその物資は自然へと還る。しかし物質的腐敗といった破壊からは免れていると、単に“思われている”に過ぎない観念を貯蔵することはできない。それが時空間のなかに存在することはありえない。観念とは、新しくも古くもなく、ここでもそこでもなく、ただ真実であるか否かである。今日では、マネーの根源的性質に、このような自己矛盾があると考えられている。不調和に組み合わされた自然と精神は、絶え間なくその中でばらばらに争い合っている。さて、マネーが手から手へと自由に通過する単なる交換媒体として機能している限り、つまり、マネーが代価として使われている限り、この自己矛盾の悪影響は絶えず修正されている。消費の為のそれぞれの購入には、経済的価値の破壊がある。しかしマネーが貯蔵され始めるや否や、換言すると、投資に使用され始め“資本”の様相を呈するとすぐに、その自己矛盾は効果を発揮する。そしてそれは意識的に抑制される必要がある。 マネーの本性のなかにある、この自己矛盾要素が表出することで、シュタイナーが“資本の自己保存的性質”と呼ぶ極めて重大な法則が顕われる。もし経済的価値の創造される割合が、価値の崩壊の割合に対して不釣り合いであれば、(市場に)吸収されない大量の資本が、商品の交換と循環を遮ることで、経済システムの大混乱を招く。その結果は産業不振 − 説明を要求しなれた事態である。 さて、資本の自己保存的性質という観念は、むき出しの概念としてかなり容易に理解される。これを理解することと、日常的な出来事にどのように適応されるかについて、明快な見解を得ることとは異なる問題である。まず疑問が生じる:資本とはなにか?これに答えるには、ダグラス少佐の研究を参照する以上に誰も良くなし得ない。先日の、金融及び産業に関するマクミリアン委員会で、ダグラスが提出した証拠を例にとる。現代の我々の金融制度のもと、資本が負担をかける方法とは、不適切に商品価格へ計上されることにある。これには、かなり注意深い説明を要する。Aは1000ポンドを所有しており、彼はこの1000ポンドを家屋の建築に使おうと決める。彼は100人の作業員を家屋の建築のために雇い、10ポンドずつの賃金を彼らに支払う。(1000ポンドはすべて賃金に回ってしまうという主張を度外視して仮定される)。最終的な段階で、状況はこのようなものとなる — Aは家屋を所有し、マネーはない。100人の作業員たちは1000ポンドを所有する。さて、作業員たちが協力し合い、彼らがAのために建てた家屋を、Aから1000ポンドで買い戻そうと決定する。Aは1000ポンドで売ることに了承する。こうしてAはこの例えから消え、作業員たちが家屋を所有し、マネーはないという状況となる。(実例を解りやすくする為に、作業員たちは家を建設している間、他の生存手段を持っていたと仮定する)。マネーがない?購入のためのマネーがないのである。作業員たちは家屋を工場として使用する目的で、有限会社を立ち上げると仮定する。工場は商品を生産し、市場へ出荷する。さて、今や工場主、もしくは株主となった彼らは、どのような理由で最低価格を決定し、商品が幾らならば納得できるだろうか?【2】(今日、この最低価格は生産コストと呼ばれる)。【3】 ダグラスが指摘するのは、100人の工場主が労働によって工場を手に入れたとも、また1000ポンドを工場に“支出した”とも言わないだろうということである。(そしてその結果、マネーは残っていない)。彼らは1000ポンドを“投資した”と言うだろう。この二つの言葉の意味の間には、世界の相違がある。もし私が楽しむために1000ポンドを使うとすると、即ち、もし私が1000ポンドを消費可能な品物と交換すると、最終的に私は1000ポンドが私のものではなくなることに同意する。しかし、もし私が工場の購入に1000ポンドで“投資”を行なうか、あるいは1000ポンドを工場主に貸付けるとすると(総計は同じであるが)、私は10年後にこの工場へきて「私の1000ポンドを現金で返せ」と言えることを要求する。私がこのことを、その工場の売却として、またはローンの回収として行なおうと違いはない。想像してみてほしい。10年の間に工場は使い古されている!そしてその結果として、その10年間に工場で生産される商品の価格には、単に工場労働者の賃金や原材料費が含まれるだけではなく、10年後に私に返済する1000ポンドを蓄えるために、それを商品価格に含めなければならない。 これがまず、資本の自己保存的性質が、普段の生活に影響を及ぼす格好の例である。売却される商品の価格として影響を及ぼす。正当であるか否かが、現時点でのポイントではない。最低限明らかなのは、もし、1000ポンドの投資家たちが快く承諾していたならば、十年後に工場が使い古されていることで、彼らの1000ポンドの資本は、もはや存在すべきでないものとして、彼らの生産コストに、予定されていた1000ポンドを記載する必要がなかっただろう。つまり、最低価格で商品を販売することができるということである。 一度あなたの中で、支出と貸出、消費として購入することと、投資として獲得することとの、根本的な違いが明確になると、シュタイナーが経済学講座で、マネーについて言わんとしたことを、随分理解したことになります。消費可能な商品に支出したマネーは、交換されたマネーである。しかし、もし私が1000ポンドを貸し付けるか投資をすると、私の借り手は、翌週には賃金として支払い、そして手から手へと渡っていく状況であるにも関わらず、そこにはある種の影、あるいはマネーの幻影として私の所有権が残存するだろう。これが私の金融資本である。これが、シュタイナーが‘Leihgeld’と呼んだものであり、貸付金、もしくは(私はこのように訳すのを好むが)“投資金”である。 資本の本性と自己保存的性質については、これくらいにしておこう。我々が引き続き、この性質の影響について考察するならば、ルドルフ・シュタイナーによってであろうと、ダグラス少佐によってであろうと、この問いに導かれる。“賃金”という言葉は、なにを意味しているのだろうか?家屋と作業員の例のなかで、賃金は彼らの“作業に対して”支払われると述べられている。しかし実際、賃金と呼ばれる、これら支払われたマネーは、3つの異なる方法で考察することがで可能である。(1)“労働”と呼ばれる(仮想の)商品の、売り手に対して支払われる価格として。(2)生産者自身が消費者として、彼らの生産物を消費可能とする配布物として。あるいは(3)生産者が創り出した商品、または商品価値に対して支払われる価格として。 最初の方法は、今日において一般的に賃金とされているものである。これまで発展してきた産業構造のなかで、労働は商品と見なされてきている。二番目の方法はダグラス少佐の著書の中で、賃金としている方法である。その着想の本質は、世界の国々がごく自然に、多かれ少なかれ、間違いなく商売敵として考えられていた時代から、唯一実際の経済単位が全世界である、この時代に至るまでの経済理論の変遷を記している。【4】三番目の方法で賃金としているのが、ルドルフ・シュタイナーによるものである。 資本の自己保存的性質によって、価格に影響が生じることへと戻る。まず始めに、賃金についての、一番目の概念の認識の下で考察してみよう。最低価格を決定するために、どのような考察が為されるだろうか。賃金が“労働”と呼ばれる商品の価格と見なされ、見積もられる上で、株主もしくは工場主たちは、彼らの工場が出荷する商品の価格が、幾らであれば承諾できるだろうか? 思い出してください。今や作業員たちは、最初の1000ポンドを所有していない。(いわば購入のためのマネーがない)。したがって、彼らは労働者に支払うために必要な資力を借入れなければならない。その結果、この最低価格は、少なくとも三つの要素から成立するだろう。 (i) 労働コスト(賃金) (ii) 原材料費 (iii) 1000ポンドの資本金(貯えるため) これが、賃金は労働と呼ばれる商品に対して支払われる価格であるという原理の上で、算定したコストの結果である。いったん我々は、製造された商品のコスト(とその最低売却価格)が決定される際に、賃金が単に三つの要素の一つでしかないことに注目した。しかし、賃金は実際、消費者となるものへと購買力が分配される、主要な手段でもある。当然の結果として、(a)生産商品がコストよりも安く販売されるか、(b)購買力の分配が、同時に他の供給源から為されるか、(c)“賃金”が全体的に異なる基準で算定されない限り、問題とされている間ずっと、社会が生産したものを購入可能とするためには、不十分な量の購買力が分配され続けることになる。 これが、要するにダグラスが15年間、聴衆に対して言い続けていることである。はじめは徐々に、しかし現在では急激にその数を伸ばしている。資本勘定の慣行は、賃金が近代産業社会(の人々)に対して分配される、購買力の主要な手段であるという事実とともに、商品価格に負担をかける。社会で生産可能である商品の割合よりも、購買のためのマネーが決して十分に流通しない状況下で、これら二つのことは共に生じ、彼曰く、必ず現在のような事態を招く。 このようにして、三つの異なる方法で賃金を考えることによる最初の結果−我々は今、その状況のなかの我々自身を見いだす−全体的豊かさの中の、全体的貧困であると言うことができる。二番目の方法で賃金を考えることの結果、人はこの状況を理解し、私たちが誤って向った先を知ることを可能にする、あるいは、するだろう。 しかし、よく知られていることであるが、ダグラスは単に誤りを指摘するだけに留まらない。彼には物事を修正するための明確で、建設的な提案がある。(a)コスト価格よりも安い商品の販売と(b)他の供給源による購買力の分配の両方を準備することによって、欠陥のあるコスト構造の不合理な影響を、妨げることを提案する。依然として彼は、賃金が品物のコスト(とそれに伴う最低価格)の部分を形成していると考えるが、しかし、消費者が全ての最低価格に接するための、十分なマネーを所持しているように取りはからう。そして、彼がこれをどのように行なうのかに注目することは、特に興味深い。 銀行業の歴史は、所有可能な全てのものは減価償却を課せられている(即ち“自己保存”のため)、という法則から逃れることを成就するための、資本の痛ましい努力によって、発展的に具現化したものである。盗んだり、切り刻むことのできる金から紙幣へ(所有者に対する適切な事前注意によって、紙そのものが盗まれたり燃やされたりした場合でも、その額面価値は維持されるだろう)。そして紙幣から銀行信用へと、今日に至るまで、気付かないうちに変化が加えられた。今日、資本の巨大な塊たちは、成長を抑える徴候があり、世界を無気力にする。そのほとんど全ては、実体が無く、また否定的な形態で存在する。現在、世界各国の中央銀行は、世界の資本の大部分の所有者である。しかし、この資本は(小分けに貯えられておらず)、金庫室に大量の金や紙幣の山として、明白に示されてはいない。それは投資される限りにおいて、負債の形態をとり、社会の残りの人々が銀行制度へと支払う義務を負う。それが未投資である限りにおいては、銀行による、通貨と信用を創造する権利の独占という形態をとり、まるで貸付金であるかのように、(通貨と信用が)社会へと分配される。 もし、ダグラスの提案が採用されるならば、金融上の信用を創造する、この独占権は銀行から剥奪され、社会の代表として国家に帰属する。そして、このようにして国家に創造する権限が与えられた信用は、何のために使用されるのであろうか?−商品をコスト以下で販売可能とするためである。このように使われることで、我々が見てきた最低価格を決定する三番目の項目である、資本費用を取り消すことができる。言い換えるならば、彼の提案は、産業時代の初期から蓄積され続けてきた、資本の膨大な塊を解体する効果があるだろう。資本の破壊はこのように、購買のためのマネーの新たな創造を伴って起こると思われる。 現行の我々の制度のもと、金融資本(投資金)の個人、もしくは私的所有者は、社会から、現存する同量の貨幣との交換を要求する権利を有している。ダグラスの提案は、膨大な資本の塊が購買力を創造する事態と置き換わるだろう。これは国の行政機関によって行なわれるのであろう。 ルドルフ・シュタイナーもまた、障害である資本の塊を解体するための対策を立てている。しかし、その作業は国家よりも“経済連合”によって制御されるべきであると彼はいう。購買力の創造に関するシュタイナーの提案“三種類のマネーの導入”(購入金、貸付金、そして贈与金)は、しばしばあり触れた改革として考えられているが、これは誤解である。実際に彼が述べたのは、すでにマネーは使用目的に応じて、これら三つの形態を取っているということである。一般的な購入のためのマネーは実際、投資されるや否や、全く違う種類のマネー(Leigeld- 投資金)に変換される。「但し」、シュタイナーは言う。「マネーについて見て、考える現在の我々の方法が、こうした変容を覆い隠している」。そして、この覆い隠すものは取り省かれなければならない、と付け加えた。 シュタイナーは、なんらかの明確な改革措置の提案よりも、実際に起こっている事態について説明することを心掛けている。これは彼が、他のものの仕事がより直接に、経済生活に関係していると考えていたからである。彼は、経済学講座で再三にわたって提案を行なったあと、これが例えのようなものとして与えられただけであり、直面する状況に応じて、全く違う手段が最もよい結果になるかもしれないと、条件を付け加えた。彼が自身に課した仕事とは、人々が知ることを手助けすることにある。いったん人々が知ったならば、彼ら自身で行動することが可能であろうと、彼は確信していた。 このようにして、彼が取り扱った、この資本投資の不変性の問題についての提案の一つは、マネーが他の商品と同様に“摩耗する”ものとして作られなければならないことである。時を経る過程において、マネーは一日ごとに、その消滅へと近づいて行くように構成されるべきである。しかし、この老朽化と必然的な価値の喪失は、投資金としてのマネーに対してだけ適応されるであろう。購入のためのマネーとしては、どれだけ時を経ようが、すべての額面価値が維持されるだろう。そして、いったん投資したマネーは、購入のためのマネーに再変換されることはないだろう。すべての最も古いマネー、有効期限間近のマネーであっても、贈与金として使用されることは、依然として可能であるとしたいと思う。そして、この最終的な変容の後に、これらの“経済連合”によって更新されることも有り得る。(もしくは、新規マネーの創造に相当しているとする)。“経済連合”とは、シュタイナー社会学の重要な特徴であり、社会三層化論に劣らず、経済学講座においても著しく関係している。 さて、この明確で、実践的な提案の重要性を過小評価する必要はないが、私見では、最も重要な唯一のこと、その本質が含まれていることに気付かないことは、経済学講座の誤解になると思われる。そして、その本質とは、資本の自己保存的性質の影響を妨げる手段を見出すことにある。世界は金融資本を蓄積する方法を見出した。課題は、それを破壊する手段を見いだすことにある−人的、精神的価値を破壊すること無く。人的、精神的価値が生み出し、そして適切に管理したものが促進する番だろう。 ダグラスはエンジニアとして、経験によってこの問題に近づき、注意を社会学に向け変えた。それは、資本の自己保存的性質からなる、実際の金融資産と対決させられた彼の日常生活から起こり、彼自身を解決にむけた動きに位置づけた。シュタイナーは、言うならば、人間の本性全体についての彼の知識の蒼穹から、問題に到達する。彼は、その性質による直接の影響にあまり気を取られていないと述べ、彼の仕事はむしろ、性質そのものを解明することであると考えている。彼は、患者に健全な食餌療法と、正常な人間の生きる道を処方する医師のようである。一方、ダグラスは、盲腸の手術を行なう準備ができた外科医に似ている。 このことはまた、生産のための賃金とコストに対する、この二人の作家の考え方に、とても明瞭に表れている。ダグラスは、世界の原価計算制度にある財政上の欠陥を検出し、説明する。購買力の分配はいかなるときでも、その時点で市場にある消費財価格と一致させなければならないと指摘する。現に今日、購買力の分配は、これらの価格によって決められてはおらず、実際には“賃金”として、いまだ生産過程のなかでコストの一部を形成している。このようにして、購買力と価格の間にギャップが生じる。このギャップを、ダグラスは、私が説明を試みた方法で、埋めようとしている。 一方、シュタイナーは難題を一挙に解決することから始める。労働は商品ではなく、したがって賃金が“コスト”とはなりえない。そのように賃金をコストと見なすことは、純粋に経済的な理由で、災難をもたらすに違いないことを、彼は知っていた;倫理と経済の根が未だ絡み合う、真実の汚れの奥底から引き出される、彼の知識によって。人は支払われなければならない−彼の労働の価格、制作の過程に未だある物のコストの一部としてではなく、彼が既に制作した物の価格として。人は中世の時代の職人たちのように、彼自身で完全な商品を作ることはできないだろう。それでもやはり、週の終わり、もしくは他の期末には、商品の抽象的部分を制作しているか、多くの商品の抽象的部分が制作されており、それは財政的に価値として計測できる。これこそ彼が社会に売るべきものであり、彼の手の労働ではない。手は人間の部分であって売りものではない。ダグラスはいう「市場にある商品の価格の総計と同額を、彼に支払いなさい。価格は過去のコストによってではなく、それ自体によって決定される」。シュタイナーはいう「彼が生産した商品の価格、それ自体を支払いなさい。その価格は現在の価値によって決定される。いったん創造された価値に対して、もはやコストはない。それには、ただ価格があるだけだ」。 しかしながら、明瞭に理解されなければならないのは、これが、問題にせまる二人の作家の異なる思索の筋道を対比させる、単なる試みであることだ。このようにして、ダグラスが購買力を増大させることで“賃金コスト”と価格とのギャップを埋めることを提示しているとはいえ、その違いは、賃上げという形で、賃収入者に対して為されないかもしれない。その一部は、現存する商品の価格安という形で、そして一部は“国民配当”として、一律に配布される形を取るだろう。また彼は、賃金が次第に購買力分配の重要な要素ではなくなるだろう、と考えている。そして、これは重大なことだが、昨年、グラスコー・イブニング・ニュースで発表したスコットランド・スキームのなかで、対策は、賃金割合の減少のために立てられた。 シュタイナーの学説の、倫理的な響きを感じ取ることは容易である。その経済的必然性、もしくは、今日の世界の財政的困窮の根源にある、注目することの無かった慣習を看破するのは、容易なことではない。とにかく私には、ダグラス少佐の考えによって、それが可能となる。私にとって、コストと賃金に対する二つの見方の違いは、その類似点よりも顕著ではない。そしてこの問題と、資本償却の問題に対する彼らの処置のなかにも、この二人の作家の関連は見いだされ、理解される。 私は、この論説の領域が、その関連に限定されたものであることに注意して締めくくらなければならない。これは二つの制度、もしくは経済学を解説しようとしたものではない。そして、この長さの論説に対して、そのような要求は全く不条理であろう。 出典:ANTHROPOSOPHY, A Quarterly Review of Spiritual Science. No. 3. MICHAELMAS 1933/ Vol. 8. London: Anthroposophical Publishing Company UK/NY. 【1】 当然、これらの物のうちのどれかが資本であるというのは正しくないということになる。資本とは無形の何かであり、他のものに取って変えることができる。信託基金が良い例だ。基金は、資本と同一視できる単一のユニットとして存在し続けるが、その資産の構成は売買によって絶えず変換され得るだろう。 【2】これは、工場が生産して販売する商品の最少総計価格のことである。需要と供給の法則を念じることが好きなものたちによって、最少総計価格というものがあるということが一般に忘れ去られている。これは、需要と供給の法則にまさる最下限であり、需要と供給の法則はもはや真実ではない。 【3】簡潔さのために利益は省略されている。あるいは利益は生産コストの一部と見なしてもよい。 【4】しかしながら、この対比が先日のロンドン経済会議に於いて頻繁に引き合いに出された、経済的愛国主義と国際協調主義の対比と関係があると考えられるべきではない。例えばルーズベルト大統領の賃金の概念は、偽善的な高利貸したちの標語よりも、世界が真の構成単位であるという経済理論とより一致している。彼らは会議に於いてルーズベルトを、計画を台無しにするといって非難する。しかしこれは、生産に資金供給するための、彼自身の借入計画が、アメリカに恒久的な利益を齎すことができる、という意見を仄めかすものとして捉えられるべきではない。

戦争の諸原因

戦争の諸原因:
私たちの金融システムには責任があるか?
C.H.ダグラス 

THE CAUSES OF WAR: 
IS OUR FINANCIAL SYSTEM TO BLAME?
C H Douglas 
Text of a BBC broadcast delivered in November 1934, published in 
The Listener 5 
December 1934 
and reprinted in the 1937 edition of 
THE MONOPOLY OF CREDIT (originally published 1931)

http://goo.gl/bicCoc


この問題についての真実に辿り着くためには、恐らく、まず始めに「戦争」とはなにかを明確にしておくことが必要です。形式的な定義によると、戦争とは「敵に対して、自らの意志を押し付ける為に取られる諸行為、もしくは、敵が自らの意志を押し付けることを妨げる為の行為」ということになります。この戦争の定義によって「方法」という重大な要件の考察よりも「動機」がなんであるかをいったん認識されたと思います。今日においては、戦争の動機を排除よりも、戦争の方法を修正する献身的な努力に、より多くのエネルギーが傾けられます。このことを認識すれば、我々が決して平和であったことは無く、戦争の形態の違いだけであることに、より気づきやすい立場にたつことができるでしょう。 

国家が行なう軍隊の戦争は、国家を廃止すれば撤廃できるだろうという意見は、ナイーブで、もちろん誤った考えであると思います。それは、市議会(UrbanDistrict Council)を廃止すれば、住民税(rate-paying)を払わずに済むと言っているようなものです。問題の範囲を拡大することで問題を処理することはできません。もし私が誤っていなければ、戦争の種はすべての村にあります。 

国家の命運を左右するとされている政治家たちの問題を考察するならば、戦争の主な原因を一瞥することができます。思うに、今日のほとんどの政治家が主要な課題として共通しているのは、雇用の拡大、国民景気の向上。そして、ごく少数の政治家がこれを実現する近道として付け加えなかったのは、海外市場を獲得することです。一度、こうした国際貿易の通説が当然とされると、最終的には戦争に至るしかない道に、我々は足を踏み入れることになります。「獲得」という言葉は、よその国から持ちかえりたいという欲望と、一般的な雇用を行なうことのない繁栄を、不可能であるにもかかわらず、手放すことを望んでいないことを示唆しています。これこそ自らの意志を相手に押し付けることであり、経済戦争です。経済戦争は常に軍事戦争を引き起こしてきました。そして、恐らく常にそうなることでしょう。 

所謂、戦争の心理的な諸原因は直接的、または間接的に刺激された人間本性の反応に辿ることができます。そのように言うことは、人間本性に対して十分に刺激することが根拠であるというよりも、苛立つ人々を十分に刺激することが根拠となり、すべての人々が戦いに駆られるように見えます。この苛立が経済戦争を引き起こすのではなく、経済戦争が苛立を引き起こします。増大した経済戦争が、軍隊の戦争であり、方法の違いはあっても、原理的に異なっているものではありません。例えば、軍需産業は雇用者の利益の拡大に応じて、雇用と高所得を被雇用者に供給します。私には、被雇用者と雇用者の過失性の違いを見ることはできません。私は軍需産業に関して直接的、間接的に関わらず興味はありませんが、大きな取引にはかなり精通しています。我々がよく耳にする様に、軍需産業関連の賄賂や汚職が、他の業種よりも、特に酷いものであると信じているわけではありません。 

まず第一に、失業をなくすことが政治家の資質の主要な条件であること。次に、海外市場の獲得はこの目的を達成する近道であること。我々がこれら2つに同意する姿勢を示す限り、我々の主たる経済的な苛立はいつでも軍事戦争を引き起こし、その上、我々の成長の割合がそれに拍車をかけています。なぜなら機械技術の利用による"生産"は膨張しており、そして未開発の市場は減少しているからです。どのような村にでもある2つの食料雑貨店が、店を拡張させている間に絶えず、不十分な取引の総量を巡って競い合い、減少させ合う。 村の食料雑貨商が、他の食料雑貨商すべての取引を獲得し、他の食料雑貨商とその従業員が苦しむという事実がある限り、もしくは、ある国家が、他の国家の通商を獲得し、他の国家の住民が失業して苦しむといった事実がある限り。これが戦争の経済的要因の実証であり、事実、これそのものが経済的な手法による戦争です。

どこかの、もしくはすべての国々で、戦争の邪悪さや恐怖についてレクチャーしたり、軍事的な戦争や武器の売買を廃止するよう、親切心に訴えることが懸命であるとは思いません。窮乏と経済的不安定が、人間性を過度に緊張状態に置くという主張は、不況、倒産件数と自殺率を比較する事で容易に証明されます。戦時には、自殺者の数は減少する。これは人々が戦争を好むからではなく、戦争景気でマネーがある為です。好景気時に自殺者の数が減少するのも、同じ理由によるものです。したがって、戦争が不可避か否かを知るには、最初にまず、完全雇用が実現しなくとも、全住民が快適でいられるだけの十分な富があるかどうか、そして次に、もしそうであるならば、なにが分配の妨げとなっているのかを知らなければなりません。私は、最初の疑問に関して答えるのに、一抹の疑いも抱いてはいません。過去十年間の危機は、供給過剰による危機であって、欠乏による危機ではない事が一般的に認められており、我々は皆、「豊かさの中の貧困」という言いまわしに馴染じみはじめています。しかし、その危機の間も欠乏は甚だしく拡大している。なぜなら失業が甚だしく拡大している為です。そのように、我々の要求する富を産出するために、完全雇用の必要はない、という経験的な証拠が我々にはあります ー それは、賃金の分配ができるという目的の為だけに必要なのであり ー 完全に異なる問題です。二つ目の疑問に関しては、入手可能な商品が無いのではなく、個々人の手にマネーが乏しいために、入手できるはずの富を購入できないことにあり、それが人々を不幸にしています。現代の我々の通念として、マネーは主に雇用に対して分配されますが、供給過剰が示すように、多くの場合、妥当ではなく、また好ましいものでもありません。そして、戦争の諸原因と「豊かさの中の欠乏」の諸原因とは、同一のものであると言っても過言ではなく、問題を通貨制度と賃金体系に見いだす事ができ、概して、貧困の解消や戦争の解決は、通貨制度の純然な改正の中に見いだす事ができます。思うに、この改正は単なる、もしくはさらに複合的な形の国民配当の形態を取らねばならず、実在の富が配分される折に、誰一人として、それらを購入するための必要なマネーが不足してはなりません。既に示された様に、実際マネーは銀行制度によって創り出されていて、それは農業や工業からではありません。ブリタニカ百科事典が銀行業について述べている箇所では、このことがこうした言葉で明確に記されています。「銀行は支払い手段を創造することによって、無からマネーを貸す」。 

我々の産業システムによる生産物を、全住民によって消費するという、国民配当の提案は、社会主義とは関係がないと明確にすることは困難に見えます。これは一般に理解されているように、社会主義とは関係がありません。社会主義の主な計画は、生産手段を国有化し、政府機関の管理下に置く事にあります。社会主義の要求に様々なメリットがあろうと、我々が考えてきた難題には触れていません。 

現在、所得として個々人に供給されている国の負債(通貨)を、国家信用(生産物)が事実上莫大に上回ったことによって、既に個人の手にあるものを没収すること無く(徴税)、国民配当の供給は、配当の支払い割当という形をもって、現在では国の負債(通貨)の負担割当として知られていますが、単純に住民の個々人に手渡されるものです。国民配当の実際の趣旨は、まず始めに、個々人への所得保障として供給されることです。手に入るならば仕事によって増やすことが望ましいのですが、それでもなお、必需品の購買力は自尊と健康を維持するために供給されます。我々の生産体制に対して、安定して需要を与えることは、景気を安定させるために役立ち、商品に対する一定の国内市場を生産者たちに保証します。我々はこうした制度を、様々な年金体系や雇用保険として持ちつつありますが、これらの重大な欠点は、税体系の中に組み込まれ、有益な効力が削がれている事にあります。現在の我々の通貨制度のもとで国民配当は不可欠ですが、通貨制度の本質的公共性が公平な認識のもとに置かれるならば、さらに当然のこととなります。しかし我々の銀行家たちには、未だ認められていません。 

国民配当の供給が、イギリス側からの攻撃的な戦争の主な動機を取り除くのに効果があったとしても、なぜ他国の動機に影響し、我々に対して戦争を仕掛けることを予防するのかと理由を尋ねられるでしょう。私が思うに、この答えは二つの部分からなります。まず最初の部分は、現行の金融制度が存続することで、弱い国家だと思うことは単に感傷的であるに過ぎないと信じ、とりわけ裕福な国家となれば、平和を形成する要因となる。全く逆です。銀行が紙の壁であれば強盗に襲われないだろう、と言っているようなものです。国際的な銀行家のほとんど全員が、軍備縮小の強力な賛同者です。しかし、この国の一般的な従業員の中で、彼らの銀行員だけは拳銃で武装し、銀行の建物の兵力は近代的な要塞に匹敵します。攻撃する動機を伴わない強さは、平和を形成する要因となります。現存する金融制度の根本的な改良は、強く、そして結合した、経済不況のない国家の構築を可能にし、その強さは攻撃的な戦争への、強力な抑止力となります。そして二つ目の部分は、繁栄し、満ち足りたイギリスの壮観は、失業に強制されて、通商で戦うのではなく、快く貿易を行なうことで、真の発展の魅力的な実例を提供し、至る所の手本とされることでしょう。 

なぜこうした改革がなされないのか?その疑問に答えるためには、こうした種々の問題に対して、全能なイングランド銀行について、言及しなければなりません。私的な会社であるイングランド銀行の総裁、モンタギュー・ノーマン氏は、イングランド銀行と大蔵省との関係を、ツイードルダムとツイードルディー*であると説明しています。 

これは、銀行家たちが戦争を促進させることを望んでいると、示唆したものではありません。そんなことは断じて無い。彼らはただ、一般社会の中のどこよりも、彼らだけを完全に満足させてくれる金融制度を改革することが、戦争よりもほんの少し、嫌いなだけです。 


 *うり二つの2人[2物] ルイス・キャロル作 「鏡の国のアリス」に登場する、イギリスの子どもたちにとって、なじみの深いキャラクター。

社会信用論

初版への序文 http://www.mondopolitico.com/library/socialcredit/prefacetofirsted.htm 古よりの言葉にこういったものがある。「悪魔は神の逆さまである」(今日の変化と社会的不安に熟慮を生じせしめるであろう)。英国とアメリカにおいて支持を獲得している、正義と民主主義という言葉の外套の下の有害で専制的な慣習、そしてロシアから供給される実例、彼らの拡張の結果として、恐らくはイタリア、スペインからも。これらは、明瞭な思考がこの問題に不可欠であることを、強調するのに役立つ。 続くページでは、概略を指し示す為の努力が払われている。そこに現れるのは、コンクリート問題の取り扱いについてだけではなく、異常な心理状態が複合的に文明を脅かしている、本質的要素だ。 C. H. ダグラス テンプル January 1924.

社会信用論

改訂版への序文     http://www.mondopolitico.com/library/socialcredit/prefacetoreviseded.htm この本の初版は、急速に広まった適切な社会、産業、そして哲学的な理想に適う、同じ名前を冠した金融理論—社会信用との関連を示すため、1924年に出版された。当時のアメリカ合衆国ではかつて無かったほどの物質的な繁栄を生じており、一般的には世界は好況にあるように見せかけられていた。 既存の金融システムが変化せず、押し付けられている限り、この繁栄が一貫して長く続くことがないという見解が、社会信用論をもって予告されることになる。そして、そうした繁栄は、大規模な危機に見舞われることとなった。同様の見解は1923年のカナダ下院議会、銀行業・産業特別調査委員会にて、長期に渡る厳しい追及によって明確に提示されていたが、不幸なことに、根拠を十二分に示したに過ぎなかった。世界恐慌の圧迫と恐怖は、文明の消滅という脅威へと発展し、全ての国の、多くの人々に、切迫した貧困と、飽和の中の欠乏という矛盾に対する理由について、社会的、政治的な圧迫と緊張ばかりでなく、速やかな救済策をも伴って、切実に自覚されていった。 世界中の国、特に海外の英国領では、世界的な不安の主要な要因として、金融システムは世論の制裁を受け、少々の疑念もあったが、陪審員の評決が固められたことは、幾分修辞的なウイリアム・ジェニングス・ブライアン氏の有名な選挙演説によって表されている。「マネー・パワーは、平和なときには、国家を食い物にし、災難にあるときには、陰謀を企てる。君主制よりも専制的で、独裁制よりも傲慢で、官僚制よりも利己的である。その方法に疑問を抱くものや、その犯罪性に光を当てるものに対しては、社会の敵であると非難する。それは、国民の道義心の目覚めによってのみ、打ち破ることができるだろう」。 再版にあたっては、全面的に改訂を施し、新たな問題点を付け加え、効果の増大が意図されたものとなっている。しかし主な主張は実質的に変更なく留められるとともに、供給された事象の確証の結果が、主要な根拠である。 C. H. ダグラス テンプル May 1933.

「なぜベーシックインカムは実際的で効果的な政策なのか」    — 関曠野氏が語るベーシックインカム

29日の日曜日、町田にある勝楽寺というお寺で行なわれた、九条・まちだ主催のベーシックインカムについての講演会へ行って来ました。お寺の地下にある講堂には100人以上の聴衆が集まり、講師の思想史家である関曠野氏の見事な話の運びで、会は盛況のうちに幕を閉じました。 まず最初に関氏はダグラスの社会信用論を骨子にして、古典経済学との対比を行なうことにより、BIの根拠を明確に浮き彫りにします。古典経済学は現在のマクロ経済学に引き継がれ、生産と消費は自動均衡するという迷信が亡霊のように、現在の我々の目の前にあるこの恐慌を悪化させているのだと言います。また、企業会計の矛盾により、生産物は支払われる総賃金を常に大きく上回ります。オートメーション化の為の設備投資にかかる費用や返済に当てる利子が商品価格に上乗せされるため、支払われる賃金で消費を行なうことが不可能となります。さらにオートメーション化が進んだ現在では、それまでの1/4の労働力で生産を賄うことが可能であるため、生産は消費を大きく上回り、最終的に現在のような総需要不足が生みだされ、結果、恐慌へと向う経済を我々は行なって来ました。関氏は、生産と消費の均衡の為にBIが必要だと語ります。 そしてここから、他のBI推進論者の学者達とは大きく異なるダイナミズムをもった政府通貨発行の必要性に話が移ります。まずは、銀行マネーの問題です。そもそも現在我々が使用している日銀券は負債から創り出されています。そしてさらに各民間銀行は預け入れられたマネーの数倍ものマネーを貸し付けています。これを信用創造(部分準備制度)というのですが、例えば1:9の割合でこの信用創造が行なわれた場合、預かった1万円から銀行は9万円を貸し付けることが可能となります。こうして銀行は勝手にお金(負債)を創り出しています。そしてさらにこのお金(負債)には利子まで付いているのです。当然のように思われて来た利息が実は根拠もなにもないものであるということ、今まで当たり前のように思われて来た銀行業の根本はこうした信用の私物化であるということ、そして我々がある商品を手に入れた時のその商品価格の1/3〜1/2は実は銀行へ支払われる利息であるという事実は今まで信じられて来た常識がいかに薄弱で、無用なものであったかということに驚かされます。しかしまだ、利子が付されていたとしても、預け入れられたお金を右から左へ貸し付けていれば左程問題はないのですが、実際の信用創造によって貸し付けられたお金は、現在流通している通貨が当てられるため、通貨の総量が不足するという事態が引き起こされ、現在のような負債デフレが我々の首を絞めるといった事態に行き着くのです。その銀行の代表が通貨を発行している日本銀行という政府機関でもなんでもない一銀行であり、その銀行がマネーの関所となって自由な交換を阻んでいます。 現在のようにマネーなくしては生存が維持できない社会に於けるマネーとは、社会インフラであり、生活インフラなのだと、関氏は続けます。つまり政府通貨発行とは公益事業であり、無利子で発行すべきものであるといいます。無利子で通貨を発行するとは、強引な経済成長を必要としないということでもあります。生産が拡大し、消費を大きく上回った現在でも更なる経済成長が強迫的に必要とされている理由はすべて、この負債として通貨が発行されていることにより起こっている出来事なのです。無利子の政府通貨が発行されれば、強引に右肩上がりの経済成長を志向する必要はなく、人からも地球からも搾取する必要性は無に帰し、市場の動向を調査したデータに基づき生産と消費の均衡を得る為に通貨供給量を決定していくことで、今まで続けてこざるをえなかった誤った経済活動を停止し、生きるための経済活動を始めることが可能となります。 そしてここからは、デモクラシー、民主主義のあり方の問題となります。即ち通貨を発行する政府を国民がどのように統治していくかという新たな民主的な手段が必要となります。その一つは、現在すでに、ブラジル、アルゼンチン、また日本では埼玉のある自治体などで行なわれている市民参加型予算編成であり、更に民主主義の可能性を突き詰めていけば、政党や代議士を選ぶ選挙ではなく、政策や課題に対して賛否を表明することのできる直接民主主義の可能性を模索し制度設計を整えていくことが、政府通貨を財源とするベーシックインカムを可能とする方策となります。 ここまででベーシックインカム施行の根拠となるものが大きく上げて二つ提示されました。一つには前述した、生産と消費の均衡を得るため。そしてもう一つには、財とは、共同体の文化的遺産の結果であるからだといいます。どういうことかというと、現在生み出される富の90%は資源、及び共同体が培って来た知識や技術によって成り立っており、現在の労働が生産のために要しているのは残りの10%程度に過ぎないといいます。そもそも論でいえば、これは至極当然のことであり、本来誰でもアクセスする権利があるはずの資源や過去の知識や技術が今まで不当に占有されてきた事実に気付かされます。そして、関氏のベーシックインカム論は所有の概念をもすらダイナミックに転回させるものであることがよく理解できました。 この後貿易についてや、経済から文化へとその比重が移っていくことの重要性についても触れられました。例えば、ドイツ、中国、韓国などの輸出依存度が40%以上であるのに比べ、日本の輸出依存度が実はたった17%の内需依存型経済であることや、海外からは現代日本の文化をポスト工業化のモデル、 Cool Japanとして受け止められていることや、現在の日本のアニメやコミックの海外収益は鉄鋼業の約3倍にも上っていること等々が語られました。 今回、関氏の講演で深まった確信は、政府通貨を財源とするBIを施行することによって、徴税によるBIより多くの問題が解決されることです。結局現在の銀行制度を維持したまま、BIを行なっても、いずれは現在同様の問題に突き当たることが目に見えます。そして私自身が強くBI施行を求める所以は、民主主義と同じルーツを持ち、人間の自由を保障することによって、人間の可能性を更に押し進める(しかも更なる工業化や経済成長ではなく文化的に)選択肢であり、現代に至ってようやく可能となった、基本的人権を具体的な形で保障しようという、エポックメイキングなアイディアであるからです。 自分の考えも交えて、関氏の講演をなぞってみましたが、是非とも多くの方々に彼の話を聞いて頂きたいと思います。