ラベル North Dakota の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル North Dakota の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

ノースダコタ銀行について:政治の作用 -IVAの支配

政治の作用 -IVAの支配

ノースダコタ銀行はこの反対運動から生き残ることが出来たのだろうが、依然として不安定な地盤の上にあった。州債の売り上げ躍進にも関わらず、否定的な評判、法的に不確定な要素、リコールの呼びかけと投資会社の州債格下げがともに州のイメージを傷つけ、政治的混乱が引き起こされた。リコールの呼びかけの間、ネストス知事は銀行と他の州産業を公平な裁判にかけると有権者に約束したが、ミネアポリスでの演説中にネストスは1923年の議会で銀行解体のステップが取られるだろうと公言した。

今やIVAのメンバーからなる産業委員会は人望の厚いF.W.カスロ総裁を解任した。連盟のメンバーだった39人の銀行員もまた解雇された。更なる州債の販売はなされなかった。連盟は、産業委員会が故意に州債を留保し銀行の支払い能力を蝕んでいると告発した。

新たに任命されたC.R.グリーン総裁の経営のもとで銀行の業務方針は重大な変更を被った。連盟の経営下でのキーワードは「貢献」であった。IVAのもとでのキーワードは「利益」であった。新たな経営陣のもとで、連盟の経営陣が査定した数百万ドル分ものローン申込書が破棄された。貸付け業務は引き締められ、査定はさらに保守的となり、新たな貸付けに制限が設けられた。

ネストスの行政府は、地方銀行に公的資金を再預金するという銀行の方針を打ち切った。このことが銀行の資産流動性と安定性を向上させていたと同時に、マネーは州に残されていた。連盟のもとでは、銀行の資産5%のみが州外の銀行に預金されていたが、IVAの経営のもとで51%に跳ね上がった。

1923年の議会でネストスは、銀行と州立産業の運営を変更もしくは廃止するいくつかの法案を要請した。議会はネストスの要請の実行にすべて失敗した。議会はノースダコタ銀行が融資していた土地の売却と差し押えのための対策を作成した。この法案は銀行が債務不履行のローンを処分することとローン計画を補填するために土地を売却することを承認した。最終的にノースダコタ銀行は営業復帰したと思われた。

http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/the_iva_in_control.html

ノースダコタ銀行について:政治の作用 -歴史的投票

政治の作用 -歴史的採決

世界大恐慌の真っ最中の州と衆望の低下とともに、IVAは連盟に対して投票を通じた二度目の攻撃を始めた。1921年、IVAは連盟が公認した産業委員会のメンバー解任とIVAが選んだ共和党員に交代させることを求めた嘆願書を持って回った。これはアメリカ合衆国初の投票によって選ばれた職員のリコールであった。また嘆願書には、ノースダコタ銀行とその他の州立産業を廃止または制限する7つの法案が書かれていた。

リコール選挙の一ヶ月前に、産業委員会はついに州の一連の銀行債権に対するウォール街のボイコットを打ち破った。労働組合と農業者組合の支持を取り付けようと全国的なキャンペーンが開始され「すべての公共心ある市民は購入できるだけ債権を買おう」と働きかけた。リン・フレイジャーは1921年7月23日を『ノースダコタ州債販売日』と宣言した。6百万ドル近くの州債が労働組合と個人に対して販売された。

IVA は州債の売り上げがねつ造だと主張して法廷に訴え、差止請求の裁定は州債の売れ行きを遮った。IVAにとっては不運にも、差止請求はたいへん広範囲に書かれており、もし従うならば、預金や支払いの受付を銀行に停止させるものであった。州政府は足踏み状態に陥ったであろう。フレイジャー知事はキャンペーンの列から法廷へと急いだ。州最高裁は差止請求を無効にした。
補欠選挙の投票開始によって、連盟の未来とその産業計画は風前の灯火であった。醜聞と連盟職員間の争い、州有企業の経営不振を非難する広報キャンペーンとA・C・タウンリーの更なる急進的な政治に対する人々の幻滅は大きな損失をもたらした。開票が開始された後、連盟の三人の職員全員が解任された。しかしノースダコタ銀行とその他の州立産業に対する人々の支持は依然として十分強固であり、産業計画を無効にする7法案を退けた。

http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/a_historic_vote.html

ノースダコタ銀行について:政治の作用 -長い日照り続き

政治の作用 -長い日照り続き

未来に影を落としたまま、1920年の投票によってノースダコタ銀行は営業を始めてから一年以上が過ぎた。一連の銀行債権は依然として売れておらず、銀行の農場ローンは更なる資金を得ること無く凍結されていた。連盟の職員たちに対する継続した組織的中傷は、特に資本不足によって農民たちに約束された融資への簡単なアクセスが見られないことから、銀行とその他の産業計画に対する人々の信用を蝕んでいった。

ランガーと他の反対者たちは、1920年の予備選挙で連盟が推薦した現職者に対して強烈なキャンペーンを展開した。ノースダコタの有権者が既に支持した州立産業は擁護するが、連盟の「堕落したリーダーシップ」に反対すると主張し、政府から社会主義者を追い出すと断言し、秋の選挙で連盟は州政府の指揮権を失った。反対者は下院の過半数を得て反連盟の住民発議法案4つすべてが通過した。州立産業計画はその場に止め置かれた。住民発議法案は市町村の財源をノースダコタ銀行に預金することを命じる1919年の規定を撤回した。債券が依然として売れていないことと重要な流動資産源の消失で、ノースダコタ銀行は農場ローンの貸し出しとその小切手を支払うことを停止した。

ノースダコタ銀行家協会はこれ以上連盟の産業計画を拡張させないという譲歩の代わりに一連の銀行債権の販売を申し出た。産業委員会は提案を断った。ツイン・シティの銀行家たちからの似たような提案も同様に拒絶された。

債券売却の長期遅延は、銀行が1920年代の農業不況に応えるには危機的な資本不足であることを意味した。その現金需要に応じるために銀行は西部地方の銀行の再預金分を回収せねばならなかった。3週間で18の銀行が閉店し、西部地方の多くのコミュニティが荒廃した。

http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/the_long_dry_spell.html

ノースダコタ銀行について:政治の作用 -対反乱作戦の始まり

政治の作用 -対反乱作戦の始まり

1920年代初期、同盟の計画の成功を確実にする債券の売り上げを覆すため、IVAとその同盟者たちは法廷、議会、世論、そしてプレスにおける組織的な攻撃、組織的な運動に乗り出した。

その上、1920年は超党派同盟にとって悲惨な年であった。1919年の議会における党首脳間の摩擦は絶頂に達し、州検事総長のビル・ランガー、州務長官のトム・ホール、そして州会計監査官のカール・コシツキーは公的に同盟を離脱した。ホールは一連の銀行債権に署名することを拒み、それらは違法に発行されたものだと申し立てた。(申し立ては州検事総長に支持された)。州検事総長の離脱は同盟の反対者が産業委員会に席を持つというだけにとどまらず、ランガーとコシツキーは同盟指導部に対する公然とした非難を全力を挙げて開始し、同盟幹部を攻撃する月刊誌を出版し、彼らはボリシェヴィキであると主張した。依然として強固な社会主義者のA・C・タウンリーは世論から不評を被り始め、彼のリーダーシップに対する衆望は徐々に浸食されていき、彼との結びつきによって、他の同盟の職員たちも同様の立場に立たされた。

銀行の経営もまた非難に晒されていた。ノースダコタ銀行はファーゴ*にあるスカンジナビア銀行のスキャンダルに巻き込まれ始めていた。スカンジナビア銀行は会員費の処理と同盟の活動の資金を用意するために同盟によって確保されていた。会員からの実際より後の日付が記入された小切手によって大規模に資金調達されていた。州検事総長の命令による会計検査によって銀行が破産の危機に瀕していることが発見された。IVAの反対者たちは、意図的に政治的便宜を計るため、非常に不安定な銀行に公的資金が再預金されていたとしてノースダコタ銀行の経営を告発した。取り付け騒ぎが閉店にまで達した後に、会計監査官たちはノースダコタ銀行の不正経理のいかなる証拠も見つけることはできなかった。しかし醜聞は銀行経営に対する人々の信頼を損なっていった。

さらになお、債券の売り上げに対しても人々の信頼は損なわれており、鉄道会社とツイン・シティの銀行業および実業団体が用意した弁護士は産業委員会、銀行、州立製粉所、穀物倉庫と農産物保険を創設した法律は違憲であると主張し、ノースダコタ州の納税者42人に代わって提訴した。裁判官は提訴を棄却したが、控訴ははるばる合衆国最高裁判所にまで持ち越され、最高裁は法律の正当性を支持した。


*ノースダコタ州の都市。Cass Countryの郡庁所在地

http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/the_counter_insurgency.html

ノースダコタ銀行について:BND草創期 -農民の行列

BND草創期 -農民の行列

銀行が開店したその日、200以上もの農場ローンの申込書が理事の机の上に置かれた。1919年には、州内の多くの農家はツイン・シティ*のセント・ポール銀行および保険会社と結んだ不動産抵当貸付の支払い遅延分を高利率で支払っており、農家経済は苦しみ始めていた。ノースダコタ銀行の使命は、農村への融資を原価で供給することにあったが、しかしそのマネーはどこからかやってこなければならなかった。

営業開始から最初の5ヶ月で銀行は、1000万ドル分の一連の銀行債券の売り上げによって資金調達しなければならない、800万ドル分のローンの申込書を受領していた。しかし債券は売れていなかった。経済はスパイラル状に下降していき、それは国内最悪の農業不況で終わった。連邦準備銀行は融資を引き締めはじめ、投資家たちはリスクの高い投資を見つけることが困難になった。ノースダコタ州の人々が同盟の訴えに応えて一連の銀行債券を購入したにも関わらず、州外の投資家たちはリスクのある銀行の投機に用心深かった。衆望は、ウォール街の投資家たちに対する債券の販売促進を必要としていた。

*ミネアポリスとセントポール。ミネソタ州のニックネーム

http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/farmers_line_up.html

ノースダコタ銀行について:BND草創期 -州債とボイコット

BND草創期 -州債とボイコット

1919年の議会で銀行は設立されたものの、融資計画の資金を調達するために州債を売却する必要があった。

まず始めに州債は、ノースダコタ銀行を現実のものにするという同盟に対する選挙民の忠誠心に訴え、ノースダコタ州の買手に対して売りに出された。委員会は、もし銀行の一連の債券が州内の客に50万ドル分売却できれば、投資家たちに選挙民が本当に銀行を支えているということと、州債が成長可能性のある投資であることを見せることができると信じていた。ノースダコタ人はそれに応えた。州外の投資家は応えなかった。

1920 年の住民投票による銀行の承認にも関わらず、州債が売れていないことが明白になったとき、産業委員会は残りの150万ドル分の州債をすでに銀行に預金されていた公金から購入し、銀行に対して小切手の裏書きを仕返すというなかなかの“手品”を演じた。これで銀行の必要レベルにまで資金供給が為されたとはいえ、銀行業務に対して実際のマネーは1ドル足りとも加えられなかった。

ノースダコタ銀行は設立された最初の州立銀行ではなかった。7つの州で完全な州立銀行は設立されたが、3つは失敗した。他の3つではときに収益はあったが、最終的には解散した。唯一サウス・カロライナの銀行は採算がとれていたが、それもまた世紀の変わり目に閉店していた。ノースダコタ州はこれらの前例から州立銀行業に関して学んだ。

産業委員会はノースダコタ銀行の深刻な資本不足を把握しており、銀行の短期の見込み収益に不具合があることを承認する譲歩をした。もし銀行を同盟の産業計画成功の要とするならば、州外のマネーによる資本供給が必要であった。

http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/bonds_and_boycotts.html

ノースダコタ銀行について:BND草創期 -最初の一斉射撃

BND草創期 -最初の一斉射撃

1919 年の議会が延期されて間もなく、IVAは同盟の産業計画に最初の一撃を与える策を練り始めた。最初の一手は、下院法18を含めた7つの産業法案に対する住民投票の嘆願書を広めることであった。彼らは知事に特別選挙を7月8日(銀行の開店予定日の2〜3日前)に予定するよう求めた。しかし知事はIVAの望む日程よりも一ヶ月早い6月26日に選挙を設定した。

同盟は素早く行動に出た。A・ C・タウンリーと彼の組織は州全域に跨がって投票者に「産業民主主義に投票し、7度“可”に投票せよ」と力説してまわった。同盟の奔走が制し、7法案すべてが人々による実質上の信任投票を受けた。しかしそれは東部の投資家たちに不信を投げかけた。

同盟はノースダコタの銀行界に、人々の銀行を支えるよう呼びかけたが、彼らは結集していなかった。地方の銀行家は、中央集権的な州立銀行が彼らを廃業させるのではないかと恐れていた。こうした恐怖感を和らげるために、産業委員会は諮問委員会を立ち上げ、銀行に対する抵抗感が和らげられるだろうことを見越して、ノースダコタ銀行の規約を定めた。

地方銀行との不公平競争に対する恐怖感を和らげることを期待して、委員会は譲歩することに同意した。銀行が農場不動産ローン以外の商用貸し付けに携わらないこと、小売り銀行業務に携わらないこと、支店を出さないこと、ノースダコタ銀行が現在方々の銀行に預金されている州の予算を引き出すことがないこと、未来の税収と市の予算を含めた州予算はノースダコタ銀行への預金を要し、市場レートよりも低いレートで地方銀行へ再預金されることを承認した。これらの譲歩の最終的な結果ノースダコタ銀行は、同盟が約束していたどの貸付け計画にも出資するお金がなかった。

http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/launching_the_first_volley.html

ノースダコタ銀行について:BND草創期 -産業計画

BND草創期 -産業計画

1919 年の議会では同盟の重要法案に取り組むために、わずか一ヶ月が費やされた。感情の燃え上がり、口汚い非難、買収計画にも関わらず、上院と下院で産業委員会を創設するための下院法案17は通過した。州知事、司法長官、農業行政長官で構成される産業委員会は、ノースダコタ州のための商業を指導する権限を与えられた。次に、ノースダコタ銀行を設立するHB18が通過した。歴史的な1919年の議会は、同盟の産業計画実施に必要な法的枠組みとなる、5つすべての法律を通過させることを次回に持ち越した。

HB18が施行されてから6週間経つこと無く、ノースダコタ銀行は営業準備が整った。運営責任者が定められ、定款が整えられ、伝票が印刷され、設備が設置され、職員が雇われ、そして銀行は開店した。一つ重要な要素が欠けていたー銀行を継続事業体とするために必要とされる2百万ドルの資本金だ。
会期中におけるIVAの反対を同盟の過半数は一蹴したが、それにも関わらずノースダコタ銀行の敵対者は敗北を認めなかった。

http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/the_industrial_program.html

ノースダコタ銀行について:超党派同盟 -NPLの乱

超党派同盟 -NPLの乱

1916年、同盟は快勝を得た。いまや同盟のメンバーは知事、司法長官、州務長官、農務長官になっていたが、州財務官は別だった。(民主党から出馬した唯一の候補者)。同盟公認候補者は下院議席の113議席中81議席を確保し、空いている上院議席の25議席中18議席を確保した。しかし、州最高裁の同盟公認候補者こそが鍵であった。同盟の産業要綱を導入する前に州憲法の改正が必要であった。

同盟の綱領は州経済のコントロールを奪還する志を抱いたものだった。その要求は州立製粉所、穀物倉庫、そして食品加工・包装工場のシステム作り、州立の農村向け金融銀行、州が請け負う雹/あられ保険、ミネアポリスの製粉業者による穀物の格付けとドック使用料に変わる州による検査、そして農場改良工事への課税控除であった。

そのすべての産業計画を確実にするために同盟のリーダーたちが決定した最も確実な方法とは、州憲法全体を新たなもの(州が商業活動に携わることを可能とするもの)に置き換えることであった。今では有名となった下院の法案44は抗議の嵐を引き起こした。とはいえ、法案は同盟が優位な下院によって承認されたものであったが、1917の議会で上院に否決された。1917年の議会ではより穏健な同盟の改革案が制定された。

反対派が組織されはじめた。1918年秋の選挙前に、ツインシティーズ*からの資金に基づく利害関係者が同盟の産業計画を破棄しようと無党派協会(IVA-Independent Voter Association)を組織し始めた。IVAは、社会党的な同盟の州立産業の計画の分別を疑う反NPLの共和党員と民主党員から構成されていた。 IVAは強敵であることを証明しようとした。

*ミネアポリスとセントポール。ミネソタ州のニックネーム


1918年の選挙は同盟の圧勝だった。いまや同盟公認候補者は警察署長を除くすべての州の官公庁、最高裁判事の五分の四と上院と下院の圧倒的多数を掌握した。同盟の産業綱領の成功は確実であるように見えた。

http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/the_npl_insurgency.html

ノースダコタ銀行について:超党派連盟(Non Partisan League) -NPLの誕生

超党派同盟(Non Partisan League) -NPLの誕生

政党に愛想がつき、途方に暮れたタウンリーはビスマークに滞在し、1915年の議会での州立穀物倉庫設立の発議に関する口論と敗北を観察していた。議員とノースダコタ組合の公正会議に付き従う農民のあいだで行われる醜く荒れた論争を綿密に観察し、タウンリーは農民を代表する新たな組織の立ち上げを決意する。新たな組織は州所有に関する項目を社会党の政治要綱から取り入れ、農民に深く根ざした大企業に対する不信を利用した。社会党を開拓したとき同様の募集テクニックを用いて、タウンリーはノースダコタの政治を一変させる組織ー超党派同盟を設立した。タウンリーは生まれつきのアジテーター(扇動家)であった。州外の経済的利害関係者に対する過去の不平と憎悪を基に、タウンリーは扇動的な演説家であった。州の隅々にわたる演説と一対一の会談においてタウンリーは粗野で無骨な演説者だったかもしれない。しかし彼は農民の言葉を語った。超党派同盟は大草原の野火のように、州内各地で吹き荒れた。

最初の6ヶ月で、連盟は2万6千人のメンバーを集めた。1年間で4万人となった。昔からの社会党のオルガナイザーは群れをなして連盟に加入するために脱退した。1918年にはノースダコタで社会党は本質的に廃れ、超党派同盟が大企業に反対するノースダコタ農民の新たなチャンピオンとなった。

農民たちが愛党心を捨てたがらないことを社会党のオルガナイザーとしての日々から彼は学んでいた。タウンリーの計画は共和党もしくは民主党の公認候補者として出馬する、連盟の綱領に賛成する候補者を予備選挙で推薦することであった。マッケンジーの組織のように、タウンリーは共和党に対して確立されたノースダコタの人々の忠誠心を利用するつもりであった。

http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/birth_of_the_npl.html

ノースダコタ銀行について:州外からの支配 -経済的搾取

州外からの支配 -経済的搾取

進歩党が促進した社会、政治改革の成功にも関わらず、州は依然として州外権益による経済支配の元に置かれていた。政治的リーダーによる鉱業、製造業を興す試みをもってしても、ノースダコタの経済は依然として危険なまでに小麦に依存していた。不幸にも、仲介業者がノースダコタの小麦の格付けと相場を決定しており、彼らと協同する鉄道会社が運送コストと輸送計画を取り仕切っていた。ツイン・シティ*、シカゴ、そして東海岸の投資家たちは資本へのアクセスをコントロールしていた。(米国Minnesota州のSt. Paul市とMinneapolis市)

第一次大戦になっても、小麦農家はカルテルによって支配され続け、搾取され続けていた。彼らはそうしたカルテルが共謀し、彼らの収穫物の公正な市場を強奪していると確信していた。

米国東部の銀行家と投資家の手中に州の未来を委ねる不正商慣行に対して、ノース・ダコタの人々は他の州のどこよりも抗議の声を上げた。第一次大戦の終わりには最初の農家所有の協同穀物倉庫の設立とともに、最終取引業者と取引イベントが活動を開始し、やっとのことで外部の事業者から州の経済的なコントロールをもぎとった。

1915年にはノースダコタ州は反乱の準備が整っていた。アーサー・C・タウンリー。非常に熱心な読書家で、元教師、そして27歳のときに破産した農家であるタウンリーは社会主義を受け入れ、ノースダコタ州の社会党の最も成功したオルガナイザーの一人となる。

1900年から1915年のあいだに社会主義はかなりの成功を収めた。マイノットの市長は社会党員であり、同様にラグビーとヒルズバロの市長も社会党員であった。社会党は州全体に候補者をたて、ピーク時には8%ほどの得票を得た。彼らは出席者の多い集会を持ち、週刊新聞を発行して草の根活動の体制を築き上げた。

オルガナイザーとしてタウンリーは農家から農家へと訪問し、社会党の綱領について農民たちに話した。党の改革案(州立穀物倉庫、銀行、農産物保険)に対する多くの支持があるとはいえ、農民たちが党を嫌っていることを、彼は早期に思い知る。タウンリーは社会党という名を伏せて社会党綱領を伝えるために影の組織を設立し、実際に社会党に加わっていることを知らない加入者を募った。彼は驚くほどに成功した。社会党のリーダーたちは激怒し、タウンリーと彼が雇った3人のオルガナイザーを解雇した。

http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/economic_exploitation.html

ノースダコタ銀行について:州外支配 -マシンを打ち破る

州外からの支配 -マシンを打ち破る

州になるまでの准州に対する保護期間は通常は短い。(およそ数年間だけ)。ダコタ準州の州への昇格は、主に州外権益による反対によって28年間延期された。こうして州への昇格を求める戦いはノースダコタ州の特徴に、経済的植民地主義への反抗という原型と、地元の事柄に対する州外からの干渉への深い不信感を据えた。

1880年代には地元の政治家、アレクサンダー・マッケンジーがノースダコタ政界のボス・トウィード*であった。マッケンジーはノーザン・パシフィック鉄道の政治におけるエージェントであり、州資本の配置から州最高裁判事の任命に至るすべての政治決断を請け負い、鉄道会社に対して有利に取りはからった。(マシン政治を展開した悪名高いタマニーホールのウィリアム・M・トウィードの通称。「タマニー・ホール」といえば票の買収操作の代名詞であった。)

ノースダコタが長期の遅延の末に州への昇格を成し遂げた後、州は財政を安定させるために苦戦を強いられた。1890年から1901年の間に、豊作の年はたった4年間に過ぎなかった。そして鉄道会社は州内の土地の四分の一近くを所有しており、納税義務を怠っていた。

州外権益による経済支配のもとで擦り切れていき、ノースダコタ農民同盟は自立を試みたが、マッケンジー・マシン(集票組織)は事実上の改革がなされるのを阻んだ。

世紀の変わり目には大きな改革運動が合衆国で吹き荒れた。改革者たちは民主主義を実際に機能させ、有力な政界のボスの権力を打破し、トラストと独占を抑制し、法規制を通じて社会問題を解決しようと試みた。進歩党の候補者、セオドア・ルーズベルトとロバート・ラ=フォレットに対するノースダコタの有権者の支持は情勢変化の合図となった。

1906年、アレキサンダー・マッケンジーが汚職事件に巻き込まれたことを受け、ノースダコタの改革者たちはマッケンジー・マシン(集票組織)の権力を打破し、州の経済的興廃の真のコントロールを手にする時が来たと確信した。それには4年間を要したが、1910年には進歩党の候補者たちは重要な選挙で勝利しはじめた。“オーネスト・ジョン”・バーク*はマッケンジーの子飼いの知事候補を打ち破った。そして初めて進歩党は下院と上院の両方の議席をおさえた。(John Burkeのニックネーム。1907〜1913年までノースダコタ州知事を務める。Honest Johnは正直者の意。)

1911年の州議会で進歩党の全面的な改革政策が通過し、超党派連盟として知られる政治的な“大草原の野火”が登場する土台を作った。

http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/breaking_the_machine.html

ノースダコタ銀行について:州外からの支配 -経済的植民地主義

州外からの支配 -経済的植民地主義

準州時代以来、ノースダコタ州は決定権を支配する政府の腐敗と鉄道、金貸し、穀物取引の経済的三頭政治と苦闘していた。世紀の変わり目には、ノースダコタ州の経済はミネソタ州の穀物ブローカー、銀行家、そして鉄道会社の企業連合(カルテル)によって支配されていた。州の未来の経済状況はただ一つの産業ー農業ーそれも単作の小麦に基づいていた。幾人かの州のリーダーによる度重なる打開の努力にもかかわらず、カルテルによる輸送、取引、資金調達のコントロールは州をミネソタの植民地も同然の好ましくない状況に留めた。

ダコタ準州の鉄道建設に拍車を掛けるため、合衆国政府は土地の4つの区画毎から1つを鉄道会社に対して譲渡した。1800年代中頃には、鉄道会社がすべての準州の土地のうち、24%の権利を保有していた。彼らは州を越えて広範囲の鉄道網を敷き、自作農入植者をその地方に定住させるために誘い入れる大規模な広告キャンペーンを開始した。これは慈善事業ではなかった。鉄道会社は建設費用の埋め合わせと当面の収入源確保のために、乗客と貨物輸送の交通を築く必要があった。彼らは採算を取る必要があった。彼らは農民とその生産物の州外への輸送が必要であった。

農民たちが新たに居住地域となったレッド川流域に殺到するにつれて、大規模なミネアポリスの穀物製粉業者らは、ダコタ準州で栽培された小麦に対する同業者間の争いをなくすために組合を設立した。組合は穀物倉庫を所有し、国内の他の地域よりも遥かに安い価格に抑えた小麦をノースダコタの農民から買い付けた。そのうえ、鉄道会社はミネアポリスの穀物製粉業者と手を組み、輸送価格を高く設定したが、無所属の仲介業者を追い払うために組合員にはリベートを渡した。

http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/economic_colonialism.html

ノースダコタ銀行について:序文

序文

2005年、プレーリー・パブリック・プロダクションは、農務省農村開発基金の寛大なるサポートを通じて、ノースダコタ銀行についてのテレビ・ドキュメンタリーを制作した。本作品は、国内唯一の州立銀行として、ノースダコタ銀行独特の歴史に焦点を当てている。以下に続く史的概略は、プレーリー・パブリック・テレビジョンのご好意によって提供されたものである。

ノースダコタ州の最も大きな銀行が州立であり、州によって運営されていることに多くの人は驚かされた。これはアメリカ合衆国内でも唯一の存在である。

1919年、無党派連盟に率いられた農民の反乱は、永久にノースダコタ州の経済風景を変化させた。『州コントロールによる社会実験』と呼ばれる連盟の産業計画は、州経済をコントロールしてきた州外の投資家による支配を終わらせることを求めた。

http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/index.html

ノースダコタ銀行:アメリカ唯一の“社会主義銀行”が景気低迷のなか繁盛している

AP通信 2010/02/16

ノースダコタ銀行ー国内唯一の州立銀行は遺物のように見えるかもしれない。しかし現在、他州の当局者たちは、ノースダコタ州が国内の景気後退を乗り切るのに、その銀行が一役買うのではないかと考えている。フロリダ、オレゴン、ワシントン州の州議会議員の知事候補者たちは、州立銀行の創設を提唱している。先月、ヴァーモント州下院委員会で作成された答申書では、「その計画には“重要なメリット”がある」と述べられていた。リベラルな映像作家、マイケル・ムーアは自身のサイトでこの銀行を取り上げている。

「そこには多くの痛みがあり、多くの州が困難に陥っており、彼らは、現在の私たちの経済的成功をノースダコタ銀行と結びつけています」。とノースダコタ銀行の総裁、エリック・ハードメイヤー氏はいう。ハードメイヤー氏は、カリフォルニア、ミシガン、ニューメキシコ、オハイオ、ワシントン州の当局者からの質問を含め、その銀行の働きについての膨大な数の問い合わせを受けてきていると語る。ノースダコタ州の失業率は国内で最も低い4.4%であり、原油生産の急上昇と強固な州予算の黒字がある。しかし「銀行はこの成功に寄与してはいません」。とハードメイヤー氏は言う。

「私たちは恐らく“触媒”であるか、もしかするとその一部ではあるでしょう」。と語り、「これが私たちによるものと、高く評価されることは喜ばしいのですが、率直に言えば、それは事実ではありません」。

ノースダコタ銀行は経済開発機関、“銀行の銀行”としての役割を果たしており、民間銀行の貸付リスクを和らげ、より大きなプロジェクトへの融資の手助けをしている。さらに農家、学生、企業には低金利のローンを提供している。直近の四半期会計報告によると、昨年度末において銀行は、約40億ドルの資産と26.7億ドルのローン債権ポートフォリオを所有している。2009年には5810万ドルの収益を上げており、6年連続の記録更新となる。これまでの10年間で銀行は、収益のなかから約3億ドルをノースダコタ州の州庫に注ぎ込んでいる。ノースダコタ銀行は、州のほとんどの財源の倉庫であるという長所があり、それらはローンや、民間銀行に対する特別な補助(金融市場が低迷を続ける間に必要な現金)として使用することができる。

「私たちは自分たちについて、一種の小さな『連邦準備銀行』と考えています。」とハードメイヤーはいう。ノースダコタ州は概算で、州政府機関が商業機関から受け取るよりも、0.25%低い利子を得ている。また銀行は、州税、又は連邦税を支払わず、預金保険もない。いかなる損失も、ノースダコタ州の納税者が負うこととなる。

ノースダコタ銀行は、無党派連盟(ノースダコタ州への融資と穀物市場の外部コントロールに対する怒りが生み出した農民の政治的な反乱)の政策の要であった。ノースダコタ州西部での亜麻栽培が破綻した後に、社会党のまとめ役となったA.C.タウンレイによって1915年に設立された無党派連盟は、州立の製粉所、穀物倉、食肉加工場、雹被害に対する保険とともに、農家に対する低金利ローンを提供する州立銀行の創設を提唱した。支持者たちは5年以内に、議会のコントロールと知事職を獲得した。その運動の勢いは急速に衰えるが、州が所有する二つの業務、ノースダコタ銀行と、グランド・フォークスにある州立製粉所と穀物倉、は生き残った。

1940年代から1960年代初期まで、銀行の業務の大半は、公的資金の預金機関、地方債の購入者であることだった、と1989年に銀行の歴史書を綴った著者、ロザンヌ・エナーソン・ユンカーは語る。それ以降、その経済開発活動は飛躍的に発展した。

ノースダコタ州北部のフォート・バートホルド・インディアン居住区にあるコミュニティ、ニュータウンのレイクサイド・ステイト・バンク(州免許銀行)の総裁、ゲーリー・ピーターセンは、州免許銀行はしばしば地元の開発計画の出資を行ないたいと望んでいると語る。

「私の経験では、まずノースダコタ銀行と交渉をします。彼らの問いは“どのように私たちは成し遂げられるだろうか”というものです」。とピーターセンは言う。「彼らは、計画を潰すような方法を模索したりはしません」。

グランド・フォークの銀行、アレウス・ファイナンシャルは、リスク分散と追加の貸出資金を自己供給するために、6億ドルのローン債権ポートフォリオの約1億1500万ドルをノースダコタ銀行へと売却した、とアレウスの銀行業務担当主任、カール・ボーリンバーグは言う。

「もしあなたが他の参加銀行を求めて離れていくとすれば、それはかなり無謀な挑戦となるでしょう。それらには、ノースダコタ銀行と同じような、取引に有利となる利益がありません。」と彼は言う。

ペンシルバニア大学、ウォートン・ビジネス・スクールの経営学教授、マウロ・ギーレンは、他の州で類似した銀行が開業される見込みはないという。理由の一部として、「ここの政治文化は、そうしたものと非常に対立している」からだという。幾つかの州と中小企業庁のような連邦政府機関は、すでにノースダコタ銀行と同じ様な経済開発計画を持っている、とギーレン氏はいう。

他州での州立銀行のアイディアは、州の積立金からのシェアを維持したい民間銀行からの反発を呼び起こすだろう、とボーリンバーグは言う。「なぜなら、ノースダコタ銀行は非常に長くここにあるので、そうした積立金があるということが、どういうことであるかを知っている銀行がない」。と彼は言う。

ハードメイヤーも、ノースダコタ州のモデルを他で始めことはできるのだろうかと、常に懐疑的だったという。しかし、現在はそれほど確信していない。

「この国で起こっていることを見るとき、かつて起こったと考えられる飛躍まであと一歩なのではないか」。と彼は言う。

ノースダコタ銀行:http://www.banknd.nd.gov/



記事に添えられていたマイケル・ムーアの作品『キャピタリズム:ア・ラブ・ストーリー』のDVD特典映像の一部より





『州立銀行の反対者たちは、設立を妨げる為に可能なすべてのことを行ないました。彼らは二つの異議申し立てを連邦最高裁判所に持ち込み、連邦裁判所は、州の市民が望むのであれば、可能としなければならないという判決をだしました。そして1920年代に干魃がおこり、彼らの夢は潰え、農家の人々は元金だけではなく、ローンの利子も払えなくなっていました。そして人々は、銀行にありのままの声明書を送りました。「私たちにはなにもありません。私たちには収穫物がなく、そして昨年も収穫がありませんでした」と。ほとんどを銀行ローンに支払わなければならず、彼らは自分たちが食べるものすらありませんでした。銀行は集金を試みましたが、ノースダコタ銀行の代表は「この人々からお金は受け取れない。彼らには何もないのだから」と語りました。それがとても明確になったのは、1930年代の初頭、ビル・ランガーが知事のときです。ビル・ランガーは支払い猶予指令を出しました。そして銀行はすべての差し押さえを停止し、彼らは農場に残ることができました。経済が上向いた1940年代始めに、銀行はこれらの農場を、銀行が引き取った価格で元の農場主に売り戻しました。

ノースダコタ銀行は、この私たちが被っている世界的な経済危機のなかで、驚く程上手くやっています。かつてないほど力強く。事実、この銀行は、他の銀行が被っている様な金融危機の影響に苦しんではいません。私が思うに、これは銀行の真の強さと、実際の銀行のミッションに対するテストとなっています。彼らはリスクの多いデリバティブには投資しておらず、サブプライムも購入していません。これは、彼らが行なう業務に適した方法ではなかったのです。ここ9年の間に銀行は、5億ドルを州の一般財源に返納しています。これの意味するところは、州の人々は追加徴税なしに、5億ドル分の計画を展開させることができるのです。私にとって、社会主義か資本主義かは問題ではありません。それが人々に対して最上の働きをなし、最少のコストで最大のサービスを提供するということが重要なのです』。

http://www.huffingtonpost.com/2010/02/16/bank-of-north-dakotasocia_n_463522.html

どのようにして国内唯一の州立銀行がウォール街に羨まれるようになったのか?

ノースダコタ銀行は、共和党員が風変わりな社会主義の拠点とでも呼びそうな、アメリカ内で唯一の州立銀行である。またノースダコタ銀行は昨年、ちょうどその民間セクターの必然的帰結として数億ドル損失しているときに、記録的な利益を得た。なるほど、この希有な成功は、住宅投機に重点を置かず、農業による主要生産物を大事にしたノースダコタの隔絶性の高い経済によるところが大きいだろう。しかし、それは他州からの政治家たちが冷え冷えとしたビスマークに助言を求めて道を切り開くことを止めはしない。アメリカ各地での州立銀行の開業は、この金融危機からわれわれを救い出すことができるだろうか?それは確実に役に立つだろうと『Web of Debt』(負債の網)の著者エレン・ブラウン女史は言う。彼女は本の中で、ノースダコタ銀行が40億ドルの運用とともに、“独自の信用を創造し、州財政の主権の確立を国内で先導することによって”信用凍結を避けてきているという。マザー・ジョーンズはノースダコタ銀行の代表、エリック・ハードマイヤーに話をきいた。

マザー・ジョーンズ(以下MJ): どのように銀行は形成されたのですか?

エリック・ハードマイヤー(以下EH): 銀行が創られたのは、人民主義運動が北部平原を席巻した90年前の1919年です。基本的にそれは、東部の市場で為された決定に動揺した農業部門の大規模集団による怒りの運動でした。恐らくはミネアポリス、ニューヨークの金融市場で、誰が融資を受け、誰が彼らの商品を市場で売買するかが決定されていたのです。そしてその運動は北部平原を吹き荒れました。ノースダコタでその運動は無党派同盟と呼ばれ、彼らは実際に州議会を掌握し、産業計画を立案しました。その産業計画で、ノースダコタ銀行を資金調達の腕として、そして州立の製粉場とエレベーターを農場主からの穀物を市場で売買するために設立しました。そして現在でも、90年前に創設された目的でこの二つは現存しているのです。私たちはほんの少しだけ手を加え、ノースダコタ州を発展させる新たな分野と方法を見つけ出してきました。

MJ:何が現在この銀行を独特なものにしているのですか?

EH:私たちの資金調達モデル、預金モデルは銀行を運営する上で、非常に独特な動力源となっています。すなわちそれは、私たちがすべての州税と納付金の預金機関であることです。なので、私たちには専属の預金ベースがあり、州財務局には競争料金を支払います。そしてそれは間違いなく、公的資金の入札でこうしたチャンスをもぎとる民間セクターには最も手に入れづらいものの一つです。しかし、それはほんの一部に過ぎません。私たちはこれらの資金を受け取り、そしてそこからが本当の違いなのですが、これらの預金をローン形態でノースダコタ州に再投資するのです。私たちは州の経済発展型の活動に対して再投資を行ない、このような仕組みを通して州を成長させています。

MJ:明らかなことですが、他の銀行も彼らの預金を投資しています。 州独自の経済に大半の資金を投資しているということとの相違点はありますか?

EH:ええ、もちろんです。しかし具体的には、経済の一定の要素を刺激するプログラムを私たちはデザインしています。それは農業であれ、
経済開発プログラムであれ、州に必要だと看做されるもの、また、現在州内で大きな動きがあると見られるエネルギー関連に対するものです。そして教育。私たちは多くの学生ローンに出資しています。これが私たちのモデルです。私たちには90年前に創設された時点で与えられた明確なミッションがあり、それが歴史を通して私たちを導いています。

MJ:他の銀行が避ける分野で、投資することはありますか?

EH:私たちは、国内で最初の連邦保険付き学生ローンを1967年に始めました。そしてこれが私たちの業務の大きな部分を占めています。これは既に、極めて重要なものになっています。あなたが最近の学生ローン業界に通じていらっしゃるかわかりませんが、しかしこれは、多くが撤退を決定するだけに、とても興味深いものなのです。けれども私たちは撤退しません。

MJ:つまり、あなたたちは公益を生じる特定の分野に出資可能なのですね?

EH:はい。もしくは、エネルギーや第一次産業関連ビジネスの方面です。私たちは、確実な線に沿った活動を奨励するためにデザインされた低金利の貸付けプログラムを取り扱っています。その他には、ノースダコタのファーゴというところにあるコミュニティにおける重大な洪水被害に本腰を入れています。私たちは12年前、ハリケーン・カトリーナに先駆けて別のコミュニティでこうした被害を経験しており、それは合衆国で最大の単独避難行動でした。それからノースダコタ銀行は、いったん洪水が退いたあとに、必要があるところへ災害向けローンを展開し、業務を支援しました。このように私たちは様々なシナリオに対して、異なる経済主体の成長を励ますにせよ、災害に取り組むにせよ、かなり迅速に援助を行なうことができます。

MJ:民間銀行はあなたたちをどのように考えていますか?

EH:この銀行の興味深いところは、私たちと民間セクターが競争と提携の微妙なラインを歩んでいることを理解し合っていることにあります。私たちは民間と競争するためではなく、協力し合う為に設計され、設立されました。従って、私たちが行なうほとんどの貸出は、本来は一般参加型のものです。それは地元銀行によって始められ、私たちが参入してローンに関与し、リスクを分担するために私たちの幾つかのプログラムを利用して利率を軽減*させました。さらに私たちは、中小企業局と同様に起業家の立ち上げに対して、確実な活動を促進する保証契約を供給しています。それとは別に、私たちは銀行の銀行として、卸売銀行としての役割も果たしています。ですから、私たちは銀行に対して、小切手処理、 流動資産の保有、債券勘定保管などのサービスを提供します。恐らく国内全域で、20以上の銀行の銀行があります。そして私たちは能力という点で、実際、ミニ連邦準備銀行としての役割を果たしています。それで私たちは、104の銀行に対してサービスの提供、流動資産の供給、小切手処理、そしてさらに限度額に収めなければならないときに、彼らからローンを買い取ります。法的な貸出限度の超過、もしくはリスク分散を希望してのことであれ、私たちは受け入れます。私たちは住宅ローンの再販市場であり、したがって、私たちが購入した住宅ローン、5億〜6億ドルの目録を所有しています。(*バイダウン方式:借入契約発足当初に借り手または第三者が一時金を支払い、事後の提起返済利子負担を軽減する方式。)

MJ:それでは、私的に所有されるかわりに、公的所有の「銀行の銀行」の利点はなんでしょう?

EH:私たちのモデルでは、ローンの資金を拠出することを通じて、他の銀行を助けるために私たちの預金ベースを使用しています。さらに、フェデラル・ファンド* の取扱品目を、私たちの余分な流動資産をもって供給しています。私たちはフェデラル・ファンドを売買し、小切手処理のための手形交換所の役目を果たしています。これが、便益モデル、もしくは異なるモデルということになるでしょう。私たちは預金銀行であり、提供する為に持ち出すことができます。(Fed funds* 米国の市中銀行が連邦準備銀行に預けている資金。資金が不足した場合、市中銀行間で賃借が起こる。)

MJ:もし他の州があなたたちのような銀行を持ったならば、彼らが、今よりも金融恐慌から防護されることが可能だとお考えですか?

EH:それはすべて経営と経営哲学にかかっています。ここ北中西部の私たちはかなり保守的で、私たちは一切サブプライムローンを行なったことはなく、デリバティブ市場に参入する能力、スワップ、コール、キャップやクレジット・デフォルト・スワップを提供する能力はありますが、単に参入しないことを選択しました。実際にウォーレン・バフェット*のメンタリティー(もし理解していないのならば、飛び込んでいくことはない。)を選択したのです。そうして私たちは、こうしたすべての落し穴を避けてきました。全てに対して完全に動じないとは言えないまでも、もちろん幾らかの不動産担保証券を購入しており、こうした問題の克服にとりかかっていますが、しかし、何も私たちが憂慮するような原因とはなっておりません。(*Warren Buffettーアメリカの著名な投資家、経営者。明確な投資哲学・スタイル(長期投資を基本スタイルとする)や先見性を持ち、空前絶後の投資運用成績を残している偉大な投資家という点だけでなく、慈善事業に積極的な点、大富豪となっても質素な生活を送っている点などから、世界中から尊敬を集めている人物。)

MJ: あなたたちをモデルとする州は、この金融恐慌を抜け出す新たな手段を持つことができるでしょうか?

EH:言い方を変えて、私たちの行なっている他のことについて申し上げましょう。私たちはさらに利益配当を州へと返還します。恐らく今年度は、6000万ドルぐらいの売り上げとなり、私たちは利益の約半分を州の一般会計へと返還します。ですから、この10年、12年間を通して、税を補うためや公共部門に必要な財源を援助するために、10億ドルの3分の1を一般会計へと返還しています。

MJ:人口60万人の州には、まんざら悪くないですね。

EH:その通りです。2001〜2年に戻って、さらにもう一つ。私たちがインターネットバブルをくぐり抜けたとき、ノースダコタ州を含め、すべての州はある種の予算不足に苦しみました。当時の私たちの予算不足はあまり大したことがなく、4000数万ドルでした。ですから、それを克服するのは極めて容易なことでした。当時の知事は単にこういいっただけです。「承知した。私たちはすべての一般会計機関から1%ずつ返還しよう。そしてノースダコタ銀行、あなたたちはバランスを取るために新たな配当金を提示して下さい」。そして私たちはそれを行ないました。私たちの資金は、それを進んで行なうのに良好な状態にあり、そして行ないました。そのように、万一に備えて、私たちは困ったときの貯えとして行動します。

MJ:そして現在の景気後退は、あなたたちを迂回しているように見えますね。

EH:ノースダコタ州は全く財源問題を抱えていません。実際に私たちは、これまでで最も巨額の黒字を取り扱っているところです。ですから私たちの心配事は、これをどうのように賢く遣い、そしてどのように未来にむけて貯えるかということです。

MJ:それは抱えて悪い問題ではありませんね。

EH:はい。私たちはちょっとした孤島にいるようなもので、周囲を見渡し、「なんてことだ、国の他の場所で起こっていることを見るのは信じられない」と言っている様なものです。そしてここで、私たちは完全に景気の循環に反していると。

MJ:他の州は、あなた方のモデルに興味を抱いていますか?

EH:私が総裁の期間、現在で9年くらいになりますが、どのように機能しているのか、他の州に対しても機能する可能性はあるだろうか、といった多くの問い合わせを他の州から頂いてきました。そして現在、ノースダコタ州知事である私の前任者は、実際、いくつかの他州の議会で、同様のモデルを設立するという件に関して証言を行ないました。これは、1〜2年前には、決して起こらなかったことだと、断言できます。

MJ:それは面白いですね。ノースダコタは伝統的にレッドステイト(共和党支持者の多い州)であるにもかかわらず、あなたたちはこうした制度をもっている。人によっては、「彼らは社会主義者だ」というかもしれない。

EH:はい。そうしたことを何度か投げかけられたことがあります。

MJ:しかし、彼らは州ではとても一般的のようですが。

EH:はい。言うまでもなく、社会主義のテーマは最近になって流行してきていますし、わずかばかり振り回されています。

MJ:政治的敵対勢力や銀行の利害関係を別として、他の州であなたたちのモデルを実践して成長できると思われますか?

EH:現在起こっていることの大半は、規則や会計実務が、あるべきところになかったことで生じた出来事に対する、脊髄反射的な反応です。ですから私のアドバイスは全員が深呼吸をすること。そして、必要なところに無くてはならない規制、背負っているリスクを理解している銀行とともに、入り込む以前よりも強固な産業として私たちはこれを終わらせ、抜け出していくということです。すべての州がノースダコタのモデルを見て、「これが全てに対する万能薬であろう」、ということにはならないと思います。

MJ:確かに、これが唯一の解決策ではありませんが、その一部になり得るのではないか、と私は興味を抱いています。

EH:かも知れません。ただ、彼らがそれで何を行ないたいかによります。私たちはこの仕組みを、州内の住宅ローンの資金繰りであれ、学生ローンを作ることによってであれ、他では安心できない得意分野を供給し、州の経済成長を刺激するために使用しています。すべての州には独自のニーズがあります。私たちはここに、それなりの特定分野を切り開いてきており、銀行業界の同業者たちからも、とても敬意を払われていると思います。彼らは私たちを、競争相手としてではなく、パートナーとして見ています。もし、どこか他の州で、私たちのモデルの一部を再現して行なうとすれば、そこが鍵となるでしょう。そこが、州有企業が民間部門と競い合うという批判に対して、本当に自身を曝け出す場所となります。

MJ:民間銀行の預金を吸い出すこと無く、短期間であなた方のような銀行を設立することは可能でしょうか?

EH:資金源として使用するために、なんらかの債券発行を行なうことができるのではないかと想像します。

MJ:金融恐慌の広がりを見たあとで、業務に関する、あなた方の見解は変化しましたか?

EH:それはまさに、私たちが行なっていることを強固なものにしました。すなわち、理解すること、上手く成し遂げること、顧客を知ることを貫くということです。私たちは、ホームランを狙うような銀行になろうとしたことは一度もありません。それは私たちにとってすべてではありません。私たちにはそれよりも重要な、はっきりとした使命があります。ほとんどの企業と銀行の最優先事項は、株主還元を最大化することです。そしてそれは、私たちにとっては好ましい副産物です。何故なら私たちはには結構な還元、2%のNROA(運用資産収益)、25〜6%のROE(株主資本利益率)があります。しかし私たちが本当に最も満足を得るところは、州のニーズに応え、私たちの州を前進させるものをファイナンスしていることに確信していることです。

2009年3月27日  ジョッシュ・ハーキンソン
原著 http://motherjones.com/mojo/2009/03/how-nation%E2%80%99s-only-state-owned-bank-became-envy-wall-street