政治の作用 -IVAの支配
ノースダコタ銀行はこの反対運動から生き残ることが出来たのだろうが、依然として不安定な地盤の上にあった。州債の売り上げ躍進にも関わらず、否定的な評判、法的に不確定な要素、リコールの呼びかけと投資会社の州債格下げがともに州のイメージを傷つけ、政治的混乱が引き起こされた。リコールの呼びかけの間、ネストス知事は銀行と他の州産業を公平な裁判にかけると有権者に約束したが、ミネアポリスでの演説中にネストスは1923年の議会で銀行解体のステップが取られるだろうと公言した。
今やIVAのメンバーからなる産業委員会は人望の厚いF.W.カスロ総裁を解任した。連盟のメンバーだった39人の銀行員もまた解雇された。更なる州債の販売はなされなかった。連盟は、産業委員会が故意に州債を留保し銀行の支払い能力を蝕んでいると告発した。
新たに任命されたC.R.グリーン総裁の経営のもとで銀行の業務方針は重大な変更を被った。連盟の経営下でのキーワードは「貢献」であった。IVAのもとでのキーワードは「利益」であった。新たな経営陣のもとで、連盟の経営陣が査定した数百万ドル分ものローン申込書が破棄された。貸付け業務は引き締められ、査定はさらに保守的となり、新たな貸付けに制限が設けられた。
ネストスの行政府は、地方銀行に公的資金を再預金するという銀行の方針を打ち切った。このことが銀行の資産流動性と安定性を向上させていたと同時に、マネーは州に残されていた。連盟のもとでは、銀行の資産5%のみが州外の銀行に預金されていたが、IVAの経営のもとで51%に跳ね上がった。
1923年の議会でネストスは、銀行と州立産業の運営を変更もしくは廃止するいくつかの法案を要請した。議会はネストスの要請の実行にすべて失敗した。議会はノースダコタ銀行が融資していた土地の売却と差し押えのための対策を作成した。この法案は銀行が債務不履行のローンを処分することとローン計画を補填するために土地を売却することを承認した。最終的にノースダコタ銀行は営業復帰したと思われた。
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/the_iva_in_control.html
ノースダコタ銀行について:政治の作用 -歴史的投票
政治の作用 -歴史的採決
世界大恐慌の真っ最中の州と衆望の低下とともに、IVAは連盟に対して投票を通じた二度目の攻撃を始めた。1921年、IVAは連盟が公認した産業委員会のメンバー解任とIVAが選んだ共和党員に交代させることを求めた嘆願書を持って回った。これはアメリカ合衆国初の投票によって選ばれた職員のリコールであった。また嘆願書には、ノースダコタ銀行とその他の州立産業を廃止または制限する7つの法案が書かれていた。
リコール選挙の一ヶ月前に、産業委員会はついに州の一連の銀行債権に対するウォール街のボイコットを打ち破った。労働組合と農業者組合の支持を取り付けようと全国的なキャンペーンが開始され「すべての公共心ある市民は購入できるだけ債権を買おう」と働きかけた。リン・フレイジャーは1921年7月23日を『ノースダコタ州債販売日』と宣言した。6百万ドル近くの州債が労働組合と個人に対して販売された。
IVA は州債の売り上げがねつ造だと主張して法廷に訴え、差止請求の裁定は州債の売れ行きを遮った。IVAにとっては不運にも、差止請求はたいへん広範囲に書かれており、もし従うならば、預金や支払いの受付を銀行に停止させるものであった。州政府は足踏み状態に陥ったであろう。フレイジャー知事はキャンペーンの列から法廷へと急いだ。州最高裁は差止請求を無効にした。
補欠選挙の投票開始によって、連盟の未来とその産業計画は風前の灯火であった。醜聞と連盟職員間の争い、州有企業の経営不振を非難する広報キャンペーンとA・C・タウンリーの更なる急進的な政治に対する人々の幻滅は大きな損失をもたらした。開票が開始された後、連盟の三人の職員全員が解任された。しかしノースダコタ銀行とその他の州立産業に対する人々の支持は依然として十分強固であり、産業計画を無効にする7法案を退けた。
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/a_historic_vote.html
世界大恐慌の真っ最中の州と衆望の低下とともに、IVAは連盟に対して投票を通じた二度目の攻撃を始めた。1921年、IVAは連盟が公認した産業委員会のメンバー解任とIVAが選んだ共和党員に交代させることを求めた嘆願書を持って回った。これはアメリカ合衆国初の投票によって選ばれた職員のリコールであった。また嘆願書には、ノースダコタ銀行とその他の州立産業を廃止または制限する7つの法案が書かれていた。
リコール選挙の一ヶ月前に、産業委員会はついに州の一連の銀行債権に対するウォール街のボイコットを打ち破った。労働組合と農業者組合の支持を取り付けようと全国的なキャンペーンが開始され「すべての公共心ある市民は購入できるだけ債権を買おう」と働きかけた。リン・フレイジャーは1921年7月23日を『ノースダコタ州債販売日』と宣言した。6百万ドル近くの州債が労働組合と個人に対して販売された。
IVA は州債の売り上げがねつ造だと主張して法廷に訴え、差止請求の裁定は州債の売れ行きを遮った。IVAにとっては不運にも、差止請求はたいへん広範囲に書かれており、もし従うならば、預金や支払いの受付を銀行に停止させるものであった。州政府は足踏み状態に陥ったであろう。フレイジャー知事はキャンペーンの列から法廷へと急いだ。州最高裁は差止請求を無効にした。
補欠選挙の投票開始によって、連盟の未来とその産業計画は風前の灯火であった。醜聞と連盟職員間の争い、州有企業の経営不振を非難する広報キャンペーンとA・C・タウンリーの更なる急進的な政治に対する人々の幻滅は大きな損失をもたらした。開票が開始された後、連盟の三人の職員全員が解任された。しかしノースダコタ銀行とその他の州立産業に対する人々の支持は依然として十分強固であり、産業計画を無効にする7法案を退けた。
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/a_historic_vote.html
ノースダコタ銀行について:政治の作用 -長い日照り続き
政治の作用 -長い日照り続き
未来に影を落としたまま、1920年の投票によってノースダコタ銀行は営業を始めてから一年以上が過ぎた。一連の銀行債権は依然として売れておらず、銀行の農場ローンは更なる資金を得ること無く凍結されていた。連盟の職員たちに対する継続した組織的中傷は、特に資本不足によって農民たちに約束された融資への簡単なアクセスが見られないことから、銀行とその他の産業計画に対する人々の信用を蝕んでいった。
ランガーと他の反対者たちは、1920年の予備選挙で連盟が推薦した現職者に対して強烈なキャンペーンを展開した。ノースダコタの有権者が既に支持した州立産業は擁護するが、連盟の「堕落したリーダーシップ」に反対すると主張し、政府から社会主義者を追い出すと断言し、秋の選挙で連盟は州政府の指揮権を失った。反対者は下院の過半数を得て反連盟の住民発議法案4つすべてが通過した。州立産業計画はその場に止め置かれた。住民発議法案は市町村の財源をノースダコタ銀行に預金することを命じる1919年の規定を撤回した。債券が依然として売れていないことと重要な流動資産源の消失で、ノースダコタ銀行は農場ローンの貸し出しとその小切手を支払うことを停止した。
ノースダコタ銀行家協会はこれ以上連盟の産業計画を拡張させないという譲歩の代わりに一連の銀行債権の販売を申し出た。産業委員会は提案を断った。ツイン・シティの銀行家たちからの似たような提案も同様に拒絶された。
債券売却の長期遅延は、銀行が1920年代の農業不況に応えるには危機的な資本不足であることを意味した。その現金需要に応じるために銀行は西部地方の銀行の再預金分を回収せねばならなかった。3週間で18の銀行が閉店し、西部地方の多くのコミュニティが荒廃した。
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/the_long_dry_spell.html
未来に影を落としたまま、1920年の投票によってノースダコタ銀行は営業を始めてから一年以上が過ぎた。一連の銀行債権は依然として売れておらず、銀行の農場ローンは更なる資金を得ること無く凍結されていた。連盟の職員たちに対する継続した組織的中傷は、特に資本不足によって農民たちに約束された融資への簡単なアクセスが見られないことから、銀行とその他の産業計画に対する人々の信用を蝕んでいった。
ランガーと他の反対者たちは、1920年の予備選挙で連盟が推薦した現職者に対して強烈なキャンペーンを展開した。ノースダコタの有権者が既に支持した州立産業は擁護するが、連盟の「堕落したリーダーシップ」に反対すると主張し、政府から社会主義者を追い出すと断言し、秋の選挙で連盟は州政府の指揮権を失った。反対者は下院の過半数を得て反連盟の住民発議法案4つすべてが通過した。州立産業計画はその場に止め置かれた。住民発議法案は市町村の財源をノースダコタ銀行に預金することを命じる1919年の規定を撤回した。債券が依然として売れていないことと重要な流動資産源の消失で、ノースダコタ銀行は農場ローンの貸し出しとその小切手を支払うことを停止した。
ノースダコタ銀行家協会はこれ以上連盟の産業計画を拡張させないという譲歩の代わりに一連の銀行債権の販売を申し出た。産業委員会は提案を断った。ツイン・シティの銀行家たちからの似たような提案も同様に拒絶された。
債券売却の長期遅延は、銀行が1920年代の農業不況に応えるには危機的な資本不足であることを意味した。その現金需要に応じるために銀行は西部地方の銀行の再預金分を回収せねばならなかった。3週間で18の銀行が閉店し、西部地方の多くのコミュニティが荒廃した。
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/the_long_dry_spell.html
ノースダコタ銀行について:政治の作用 -対反乱作戦の始まり
政治の作用 -対反乱作戦の始まり
1920年代初期、同盟の計画の成功を確実にする債券の売り上げを覆すため、IVAとその同盟者たちは法廷、議会、世論、そしてプレスにおける組織的な攻撃、組織的な運動に乗り出した。
その上、1920年は超党派同盟にとって悲惨な年であった。1919年の議会における党首脳間の摩擦は絶頂に達し、州検事総長のビル・ランガー、州務長官のトム・ホール、そして州会計監査官のカール・コシツキーは公的に同盟を離脱した。ホールは一連の銀行債権に署名することを拒み、それらは違法に発行されたものだと申し立てた。(申し立ては州検事総長に支持された)。州検事総長の離脱は同盟の反対者が産業委員会に席を持つというだけにとどまらず、ランガーとコシツキーは同盟指導部に対する公然とした非難を全力を挙げて開始し、同盟幹部を攻撃する月刊誌を出版し、彼らはボリシェヴィキであると主張した。依然として強固な社会主義者のA・C・タウンリーは世論から不評を被り始め、彼のリーダーシップに対する衆望は徐々に浸食されていき、彼との結びつきによって、他の同盟の職員たちも同様の立場に立たされた。
銀行の経営もまた非難に晒されていた。ノースダコタ銀行はファーゴ*にあるスカンジナビア銀行のスキャンダルに巻き込まれ始めていた。スカンジナビア銀行は会員費の処理と同盟の活動の資金を用意するために同盟によって確保されていた。会員からの実際より後の日付が記入された小切手によって大規模に資金調達されていた。州検事総長の命令による会計検査によって銀行が破産の危機に瀕していることが発見された。IVAの反対者たちは、意図的に政治的便宜を計るため、非常に不安定な銀行に公的資金が再預金されていたとしてノースダコタ銀行の経営を告発した。取り付け騒ぎが閉店にまで達した後に、会計監査官たちはノースダコタ銀行の不正経理のいかなる証拠も見つけることはできなかった。しかし醜聞は銀行経営に対する人々の信頼を損なっていった。
さらになお、債券の売り上げに対しても人々の信頼は損なわれており、鉄道会社とツイン・シティの銀行業および実業団体が用意した弁護士は産業委員会、銀行、州立製粉所、穀物倉庫と農産物保険を創設した法律は違憲であると主張し、ノースダコタ州の納税者42人に代わって提訴した。裁判官は提訴を棄却したが、控訴ははるばる合衆国最高裁判所にまで持ち越され、最高裁は法律の正当性を支持した。
*ノースダコタ州の都市。Cass Countryの郡庁所在地
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/the_counter_insurgency.html
1920年代初期、同盟の計画の成功を確実にする債券の売り上げを覆すため、IVAとその同盟者たちは法廷、議会、世論、そしてプレスにおける組織的な攻撃、組織的な運動に乗り出した。
その上、1920年は超党派同盟にとって悲惨な年であった。1919年の議会における党首脳間の摩擦は絶頂に達し、州検事総長のビル・ランガー、州務長官のトム・ホール、そして州会計監査官のカール・コシツキーは公的に同盟を離脱した。ホールは一連の銀行債権に署名することを拒み、それらは違法に発行されたものだと申し立てた。(申し立ては州検事総長に支持された)。州検事総長の離脱は同盟の反対者が産業委員会に席を持つというだけにとどまらず、ランガーとコシツキーは同盟指導部に対する公然とした非難を全力を挙げて開始し、同盟幹部を攻撃する月刊誌を出版し、彼らはボリシェヴィキであると主張した。依然として強固な社会主義者のA・C・タウンリーは世論から不評を被り始め、彼のリーダーシップに対する衆望は徐々に浸食されていき、彼との結びつきによって、他の同盟の職員たちも同様の立場に立たされた。
銀行の経営もまた非難に晒されていた。ノースダコタ銀行はファーゴ*にあるスカンジナビア銀行のスキャンダルに巻き込まれ始めていた。スカンジナビア銀行は会員費の処理と同盟の活動の資金を用意するために同盟によって確保されていた。会員からの実際より後の日付が記入された小切手によって大規模に資金調達されていた。州検事総長の命令による会計検査によって銀行が破産の危機に瀕していることが発見された。IVAの反対者たちは、意図的に政治的便宜を計るため、非常に不安定な銀行に公的資金が再預金されていたとしてノースダコタ銀行の経営を告発した。取り付け騒ぎが閉店にまで達した後に、会計監査官たちはノースダコタ銀行の不正経理のいかなる証拠も見つけることはできなかった。しかし醜聞は銀行経営に対する人々の信頼を損なっていった。
さらになお、債券の売り上げに対しても人々の信頼は損なわれており、鉄道会社とツイン・シティの銀行業および実業団体が用意した弁護士は産業委員会、銀行、州立製粉所、穀物倉庫と農産物保険を創設した法律は違憲であると主張し、ノースダコタ州の納税者42人に代わって提訴した。裁判官は提訴を棄却したが、控訴ははるばる合衆国最高裁判所にまで持ち越され、最高裁は法律の正当性を支持した。
*ノースダコタ州の都市。Cass Countryの郡庁所在地
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/the_counter_insurgency.html
ノースダコタ銀行について:BND草創期 -農民の行列
BND草創期 -農民の行列
銀行が開店したその日、200以上もの農場ローンの申込書が理事の机の上に置かれた。1919年には、州内の多くの農家はツイン・シティ*のセント・ポール銀行および保険会社と結んだ不動産抵当貸付の支払い遅延分を高利率で支払っており、農家経済は苦しみ始めていた。ノースダコタ銀行の使命は、農村への融資を原価で供給することにあったが、しかしそのマネーはどこからかやってこなければならなかった。
営業開始から最初の5ヶ月で銀行は、1000万ドル分の一連の銀行債券の売り上げによって資金調達しなければならない、800万ドル分のローンの申込書を受領していた。しかし債券は売れていなかった。経済はスパイラル状に下降していき、それは国内最悪の農業不況で終わった。連邦準備銀行は融資を引き締めはじめ、投資家たちはリスクの高い投資を見つけることが困難になった。ノースダコタ州の人々が同盟の訴えに応えて一連の銀行債券を購入したにも関わらず、州外の投資家たちはリスクのある銀行の投機に用心深かった。衆望は、ウォール街の投資家たちに対する債券の販売促進を必要としていた。
*ミネアポリスとセントポール。ミネソタ州のニックネーム
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/farmers_line_up.html
銀行が開店したその日、200以上もの農場ローンの申込書が理事の机の上に置かれた。1919年には、州内の多くの農家はツイン・シティ*のセント・ポール銀行および保険会社と結んだ不動産抵当貸付の支払い遅延分を高利率で支払っており、農家経済は苦しみ始めていた。ノースダコタ銀行の使命は、農村への融資を原価で供給することにあったが、しかしそのマネーはどこからかやってこなければならなかった。
営業開始から最初の5ヶ月で銀行は、1000万ドル分の一連の銀行債券の売り上げによって資金調達しなければならない、800万ドル分のローンの申込書を受領していた。しかし債券は売れていなかった。経済はスパイラル状に下降していき、それは国内最悪の農業不況で終わった。連邦準備銀行は融資を引き締めはじめ、投資家たちはリスクの高い投資を見つけることが困難になった。ノースダコタ州の人々が同盟の訴えに応えて一連の銀行債券を購入したにも関わらず、州外の投資家たちはリスクのある銀行の投機に用心深かった。衆望は、ウォール街の投資家たちに対する債券の販売促進を必要としていた。
*ミネアポリスとセントポール。ミネソタ州のニックネーム
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/farmers_line_up.html
ノースダコタ銀行について:BND草創期 -州債とボイコット
BND草創期 -州債とボイコット
1919年の議会で銀行は設立されたものの、融資計画の資金を調達するために州債を売却する必要があった。
まず始めに州債は、ノースダコタ銀行を現実のものにするという同盟に対する選挙民の忠誠心に訴え、ノースダコタ州の買手に対して売りに出された。委員会は、もし銀行の一連の債券が州内の客に50万ドル分売却できれば、投資家たちに選挙民が本当に銀行を支えているということと、州債が成長可能性のある投資であることを見せることができると信じていた。ノースダコタ人はそれに応えた。州外の投資家は応えなかった。
1920 年の住民投票による銀行の承認にも関わらず、州債が売れていないことが明白になったとき、産業委員会は残りの150万ドル分の州債をすでに銀行に預金されていた公金から購入し、銀行に対して小切手の裏書きを仕返すというなかなかの“手品”を演じた。これで銀行の必要レベルにまで資金供給が為されたとはいえ、銀行業務に対して実際のマネーは1ドル足りとも加えられなかった。
ノースダコタ銀行は設立された最初の州立銀行ではなかった。7つの州で完全な州立銀行は設立されたが、3つは失敗した。他の3つではときに収益はあったが、最終的には解散した。唯一サウス・カロライナの銀行は採算がとれていたが、それもまた世紀の変わり目に閉店していた。ノースダコタ州はこれらの前例から州立銀行業に関して学んだ。
産業委員会はノースダコタ銀行の深刻な資本不足を把握しており、銀行の短期の見込み収益に不具合があることを承認する譲歩をした。もし銀行を同盟の産業計画成功の要とするならば、州外のマネーによる資本供給が必要であった。
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/bonds_and_boycotts.html
1919年の議会で銀行は設立されたものの、融資計画の資金を調達するために州債を売却する必要があった。
まず始めに州債は、ノースダコタ銀行を現実のものにするという同盟に対する選挙民の忠誠心に訴え、ノースダコタ州の買手に対して売りに出された。委員会は、もし銀行の一連の債券が州内の客に50万ドル分売却できれば、投資家たちに選挙民が本当に銀行を支えているということと、州債が成長可能性のある投資であることを見せることができると信じていた。ノースダコタ人はそれに応えた。州外の投資家は応えなかった。
1920 年の住民投票による銀行の承認にも関わらず、州債が売れていないことが明白になったとき、産業委員会は残りの150万ドル分の州債をすでに銀行に預金されていた公金から購入し、銀行に対して小切手の裏書きを仕返すというなかなかの“手品”を演じた。これで銀行の必要レベルにまで資金供給が為されたとはいえ、銀行業務に対して実際のマネーは1ドル足りとも加えられなかった。
ノースダコタ銀行は設立された最初の州立銀行ではなかった。7つの州で完全な州立銀行は設立されたが、3つは失敗した。他の3つではときに収益はあったが、最終的には解散した。唯一サウス・カロライナの銀行は採算がとれていたが、それもまた世紀の変わり目に閉店していた。ノースダコタ州はこれらの前例から州立銀行業に関して学んだ。
産業委員会はノースダコタ銀行の深刻な資本不足を把握しており、銀行の短期の見込み収益に不具合があることを承認する譲歩をした。もし銀行を同盟の産業計画成功の要とするならば、州外のマネーによる資本供給が必要であった。
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/bonds_and_boycotts.html
ノースダコタ銀行について:BND草創期 -最初の一斉射撃
BND草創期 -最初の一斉射撃
1919 年の議会が延期されて間もなく、IVAは同盟の産業計画に最初の一撃を与える策を練り始めた。最初の一手は、下院法18を含めた7つの産業法案に対する住民投票の嘆願書を広めることであった。彼らは知事に特別選挙を7月8日(銀行の開店予定日の2〜3日前)に予定するよう求めた。しかし知事はIVAの望む日程よりも一ヶ月早い6月26日に選挙を設定した。
同盟は素早く行動に出た。A・ C・タウンリーと彼の組織は州全域に跨がって投票者に「産業民主主義に投票し、7度“可”に投票せよ」と力説してまわった。同盟の奔走が制し、7法案すべてが人々による実質上の信任投票を受けた。しかしそれは東部の投資家たちに不信を投げかけた。
同盟はノースダコタの銀行界に、人々の銀行を支えるよう呼びかけたが、彼らは結集していなかった。地方の銀行家は、中央集権的な州立銀行が彼らを廃業させるのではないかと恐れていた。こうした恐怖感を和らげるために、産業委員会は諮問委員会を立ち上げ、銀行に対する抵抗感が和らげられるだろうことを見越して、ノースダコタ銀行の規約を定めた。
地方銀行との不公平競争に対する恐怖感を和らげることを期待して、委員会は譲歩することに同意した。銀行が農場不動産ローン以外の商用貸し付けに携わらないこと、小売り銀行業務に携わらないこと、支店を出さないこと、ノースダコタ銀行が現在方々の銀行に預金されている州の予算を引き出すことがないこと、未来の税収と市の予算を含めた州予算はノースダコタ銀行への預金を要し、市場レートよりも低いレートで地方銀行へ再預金されることを承認した。これらの譲歩の最終的な結果ノースダコタ銀行は、同盟が約束していたどの貸付け計画にも出資するお金がなかった。
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/launching_the_first_volley.html
1919 年の議会が延期されて間もなく、IVAは同盟の産業計画に最初の一撃を与える策を練り始めた。最初の一手は、下院法18を含めた7つの産業法案に対する住民投票の嘆願書を広めることであった。彼らは知事に特別選挙を7月8日(銀行の開店予定日の2〜3日前)に予定するよう求めた。しかし知事はIVAの望む日程よりも一ヶ月早い6月26日に選挙を設定した。
同盟は素早く行動に出た。A・ C・タウンリーと彼の組織は州全域に跨がって投票者に「産業民主主義に投票し、7度“可”に投票せよ」と力説してまわった。同盟の奔走が制し、7法案すべてが人々による実質上の信任投票を受けた。しかしそれは東部の投資家たちに不信を投げかけた。
同盟はノースダコタの銀行界に、人々の銀行を支えるよう呼びかけたが、彼らは結集していなかった。地方の銀行家は、中央集権的な州立銀行が彼らを廃業させるのではないかと恐れていた。こうした恐怖感を和らげるために、産業委員会は諮問委員会を立ち上げ、銀行に対する抵抗感が和らげられるだろうことを見越して、ノースダコタ銀行の規約を定めた。
地方銀行との不公平競争に対する恐怖感を和らげることを期待して、委員会は譲歩することに同意した。銀行が農場不動産ローン以外の商用貸し付けに携わらないこと、小売り銀行業務に携わらないこと、支店を出さないこと、ノースダコタ銀行が現在方々の銀行に預金されている州の予算を引き出すことがないこと、未来の税収と市の予算を含めた州予算はノースダコタ銀行への預金を要し、市場レートよりも低いレートで地方銀行へ再預金されることを承認した。これらの譲歩の最終的な結果ノースダコタ銀行は、同盟が約束していたどの貸付け計画にも出資するお金がなかった。
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/launching_the_first_volley.html
ノースダコタ銀行について:BND草創期 -産業計画
BND草創期 -産業計画
1919 年の議会では同盟の重要法案に取り組むために、わずか一ヶ月が費やされた。感情の燃え上がり、口汚い非難、買収計画にも関わらず、上院と下院で産業委員会を創設するための下院法案17は通過した。州知事、司法長官、農業行政長官で構成される産業委員会は、ノースダコタ州のための商業を指導する権限を与えられた。次に、ノースダコタ銀行を設立するHB18が通過した。歴史的な1919年の議会は、同盟の産業計画実施に必要な法的枠組みとなる、5つすべての法律を通過させることを次回に持ち越した。
HB18が施行されてから6週間経つこと無く、ノースダコタ銀行は営業準備が整った。運営責任者が定められ、定款が整えられ、伝票が印刷され、設備が設置され、職員が雇われ、そして銀行は開店した。一つ重要な要素が欠けていたー銀行を継続事業体とするために必要とされる2百万ドルの資本金だ。
会期中におけるIVAの反対を同盟の過半数は一蹴したが、それにも関わらずノースダコタ銀行の敵対者は敗北を認めなかった。
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/the_industrial_program.html
1919 年の議会では同盟の重要法案に取り組むために、わずか一ヶ月が費やされた。感情の燃え上がり、口汚い非難、買収計画にも関わらず、上院と下院で産業委員会を創設するための下院法案17は通過した。州知事、司法長官、農業行政長官で構成される産業委員会は、ノースダコタ州のための商業を指導する権限を与えられた。次に、ノースダコタ銀行を設立するHB18が通過した。歴史的な1919年の議会は、同盟の産業計画実施に必要な法的枠組みとなる、5つすべての法律を通過させることを次回に持ち越した。
HB18が施行されてから6週間経つこと無く、ノースダコタ銀行は営業準備が整った。運営責任者が定められ、定款が整えられ、伝票が印刷され、設備が設置され、職員が雇われ、そして銀行は開店した。一つ重要な要素が欠けていたー銀行を継続事業体とするために必要とされる2百万ドルの資本金だ。
会期中におけるIVAの反対を同盟の過半数は一蹴したが、それにも関わらずノースダコタ銀行の敵対者は敗北を認めなかった。
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/the_industrial_program.html
ノースダコタ銀行について:超党派同盟 -NPLの乱
超党派同盟 -NPLの乱
1916年、同盟は快勝を得た。いまや同盟のメンバーは知事、司法長官、州務長官、農務長官になっていたが、州財務官は別だった。(民主党から出馬した唯一の候補者)。同盟公認候補者は下院議席の113議席中81議席を確保し、空いている上院議席の25議席中18議席を確保した。しかし、州最高裁の同盟公認候補者こそが鍵であった。同盟の産業要綱を導入する前に州憲法の改正が必要であった。
同盟の綱領は州経済のコントロールを奪還する志を抱いたものだった。その要求は州立製粉所、穀物倉庫、そして食品加工・包装工場のシステム作り、州立の農村向け金融銀行、州が請け負う雹/あられ保険、ミネアポリスの製粉業者による穀物の格付けとドック使用料に変わる州による検査、そして農場改良工事への課税控除であった。
そのすべての産業計画を確実にするために同盟のリーダーたちが決定した最も確実な方法とは、州憲法全体を新たなもの(州が商業活動に携わることを可能とするもの)に置き換えることであった。今では有名となった下院の法案44は抗議の嵐を引き起こした。とはいえ、法案は同盟が優位な下院によって承認されたものであったが、1917の議会で上院に否決された。1917年の議会ではより穏健な同盟の改革案が制定された。
反対派が組織されはじめた。1918年秋の選挙前に、ツインシティーズ*からの資金に基づく利害関係者が同盟の産業計画を破棄しようと無党派協会(IVA-Independent Voter Association)を組織し始めた。IVAは、社会党的な同盟の州立産業の計画の分別を疑う反NPLの共和党員と民主党員から構成されていた。 IVAは強敵であることを証明しようとした。
*ミネアポリスとセントポール。ミネソタ州のニックネーム
1918年の選挙は同盟の圧勝だった。いまや同盟公認候補者は警察署長を除くすべての州の官公庁、最高裁判事の五分の四と上院と下院の圧倒的多数を掌握した。同盟の産業綱領の成功は確実であるように見えた。
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/the_npl_insurgency.html
1916年、同盟は快勝を得た。いまや同盟のメンバーは知事、司法長官、州務長官、農務長官になっていたが、州財務官は別だった。(民主党から出馬した唯一の候補者)。同盟公認候補者は下院議席の113議席中81議席を確保し、空いている上院議席の25議席中18議席を確保した。しかし、州最高裁の同盟公認候補者こそが鍵であった。同盟の産業要綱を導入する前に州憲法の改正が必要であった。
同盟の綱領は州経済のコントロールを奪還する志を抱いたものだった。その要求は州立製粉所、穀物倉庫、そして食品加工・包装工場のシステム作り、州立の農村向け金融銀行、州が請け負う雹/あられ保険、ミネアポリスの製粉業者による穀物の格付けとドック使用料に変わる州による検査、そして農場改良工事への課税控除であった。
そのすべての産業計画を確実にするために同盟のリーダーたちが決定した最も確実な方法とは、州憲法全体を新たなもの(州が商業活動に携わることを可能とするもの)に置き換えることであった。今では有名となった下院の法案44は抗議の嵐を引き起こした。とはいえ、法案は同盟が優位な下院によって承認されたものであったが、1917の議会で上院に否決された。1917年の議会ではより穏健な同盟の改革案が制定された。
反対派が組織されはじめた。1918年秋の選挙前に、ツインシティーズ*からの資金に基づく利害関係者が同盟の産業計画を破棄しようと無党派協会(IVA-Independent Voter Association)を組織し始めた。IVAは、社会党的な同盟の州立産業の計画の分別を疑う反NPLの共和党員と民主党員から構成されていた。 IVAは強敵であることを証明しようとした。
*ミネアポリスとセントポール。ミネソタ州のニックネーム
1918年の選挙は同盟の圧勝だった。いまや同盟公認候補者は警察署長を除くすべての州の官公庁、最高裁判事の五分の四と上院と下院の圧倒的多数を掌握した。同盟の産業綱領の成功は確実であるように見えた。
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/the_npl_insurgency.html
ノースダコタ銀行について:超党派連盟(Non Partisan League) -NPLの誕生
超党派同盟(Non Partisan League) -NPLの誕生
政党に愛想がつき、途方に暮れたタウンリーはビスマークに滞在し、1915年の議会での州立穀物倉庫設立の発議に関する口論と敗北を観察していた。議員とノースダコタ組合の公正会議に付き従う農民のあいだで行われる醜く荒れた論争を綿密に観察し、タウンリーは農民を代表する新たな組織の立ち上げを決意する。新たな組織は州所有に関する項目を社会党の政治要綱から取り入れ、農民に深く根ざした大企業に対する不信を利用した。社会党を開拓したとき同様の募集テクニックを用いて、タウンリーはノースダコタの政治を一変させる組織ー超党派同盟を設立した。タウンリーは生まれつきのアジテーター(扇動家)であった。州外の経済的利害関係者に対する過去の不平と憎悪を基に、タウンリーは扇動的な演説家であった。州の隅々にわたる演説と一対一の会談においてタウンリーは粗野で無骨な演説者だったかもしれない。しかし彼は農民の言葉を語った。超党派同盟は大草原の野火のように、州内各地で吹き荒れた。
最初の6ヶ月で、連盟は2万6千人のメンバーを集めた。1年間で4万人となった。昔からの社会党のオルガナイザーは群れをなして連盟に加入するために脱退した。1918年にはノースダコタで社会党は本質的に廃れ、超党派同盟が大企業に反対するノースダコタ農民の新たなチャンピオンとなった。
農民たちが愛党心を捨てたがらないことを社会党のオルガナイザーとしての日々から彼は学んでいた。タウンリーの計画は共和党もしくは民主党の公認候補者として出馬する、連盟の綱領に賛成する候補者を予備選挙で推薦することであった。マッケンジーの組織のように、タウンリーは共和党に対して確立されたノースダコタの人々の忠誠心を利用するつもりであった。
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/birth_of_the_npl.html
政党に愛想がつき、途方に暮れたタウンリーはビスマークに滞在し、1915年の議会での州立穀物倉庫設立の発議に関する口論と敗北を観察していた。議員とノースダコタ組合の公正会議に付き従う農民のあいだで行われる醜く荒れた論争を綿密に観察し、タウンリーは農民を代表する新たな組織の立ち上げを決意する。新たな組織は州所有に関する項目を社会党の政治要綱から取り入れ、農民に深く根ざした大企業に対する不信を利用した。社会党を開拓したとき同様の募集テクニックを用いて、タウンリーはノースダコタの政治を一変させる組織ー超党派同盟を設立した。タウンリーは生まれつきのアジテーター(扇動家)であった。州外の経済的利害関係者に対する過去の不平と憎悪を基に、タウンリーは扇動的な演説家であった。州の隅々にわたる演説と一対一の会談においてタウンリーは粗野で無骨な演説者だったかもしれない。しかし彼は農民の言葉を語った。超党派同盟は大草原の野火のように、州内各地で吹き荒れた。
最初の6ヶ月で、連盟は2万6千人のメンバーを集めた。1年間で4万人となった。昔からの社会党のオルガナイザーは群れをなして連盟に加入するために脱退した。1918年にはノースダコタで社会党は本質的に廃れ、超党派同盟が大企業に反対するノースダコタ農民の新たなチャンピオンとなった。
農民たちが愛党心を捨てたがらないことを社会党のオルガナイザーとしての日々から彼は学んでいた。タウンリーの計画は共和党もしくは民主党の公認候補者として出馬する、連盟の綱領に賛成する候補者を予備選挙で推薦することであった。マッケンジーの組織のように、タウンリーは共和党に対して確立されたノースダコタの人々の忠誠心を利用するつもりであった。
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/birth_of_the_npl.html
ノースダコタ銀行について:州外からの支配 -経済的搾取
州外からの支配 -経済的搾取
進歩党が促進した社会、政治改革の成功にも関わらず、州は依然として州外権益による経済支配の元に置かれていた。政治的リーダーによる鉱業、製造業を興す試みをもってしても、ノースダコタの経済は依然として危険なまでに小麦に依存していた。不幸にも、仲介業者がノースダコタの小麦の格付けと相場を決定しており、彼らと協同する鉄道会社が運送コストと輸送計画を取り仕切っていた。ツイン・シティ*、シカゴ、そして東海岸の投資家たちは資本へのアクセスをコントロールしていた。(米国Minnesota州のSt. Paul市とMinneapolis市)
第一次大戦になっても、小麦農家はカルテルによって支配され続け、搾取され続けていた。彼らはそうしたカルテルが共謀し、彼らの収穫物の公正な市場を強奪していると確信していた。
米国東部の銀行家と投資家の手中に州の未来を委ねる不正商慣行に対して、ノース・ダコタの人々は他の州のどこよりも抗議の声を上げた。第一次大戦の終わりには最初の農家所有の協同穀物倉庫の設立とともに、最終取引業者と取引イベントが活動を開始し、やっとのことで外部の事業者から州の経済的なコントロールをもぎとった。
1915年にはノースダコタ州は反乱の準備が整っていた。アーサー・C・タウンリー。非常に熱心な読書家で、元教師、そして27歳のときに破産した農家であるタウンリーは社会主義を受け入れ、ノースダコタ州の社会党の最も成功したオルガナイザーの一人となる。
1900年から1915年のあいだに社会主義はかなりの成功を収めた。マイノットの市長は社会党員であり、同様にラグビーとヒルズバロの市長も社会党員であった。社会党は州全体に候補者をたて、ピーク時には8%ほどの得票を得た。彼らは出席者の多い集会を持ち、週刊新聞を発行して草の根活動の体制を築き上げた。
オルガナイザーとしてタウンリーは農家から農家へと訪問し、社会党の綱領について農民たちに話した。党の改革案(州立穀物倉庫、銀行、農産物保険)に対する多くの支持があるとはいえ、農民たちが党を嫌っていることを、彼は早期に思い知る。タウンリーは社会党という名を伏せて社会党綱領を伝えるために影の組織を設立し、実際に社会党に加わっていることを知らない加入者を募った。彼は驚くほどに成功した。社会党のリーダーたちは激怒し、タウンリーと彼が雇った3人のオルガナイザーを解雇した。
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/economic_exploitation.html
進歩党が促進した社会、政治改革の成功にも関わらず、州は依然として州外権益による経済支配の元に置かれていた。政治的リーダーによる鉱業、製造業を興す試みをもってしても、ノースダコタの経済は依然として危険なまでに小麦に依存していた。不幸にも、仲介業者がノースダコタの小麦の格付けと相場を決定しており、彼らと協同する鉄道会社が運送コストと輸送計画を取り仕切っていた。ツイン・シティ*、シカゴ、そして東海岸の投資家たちは資本へのアクセスをコントロールしていた。(米国Minnesota州のSt. Paul市とMinneapolis市)
第一次大戦になっても、小麦農家はカルテルによって支配され続け、搾取され続けていた。彼らはそうしたカルテルが共謀し、彼らの収穫物の公正な市場を強奪していると確信していた。
米国東部の銀行家と投資家の手中に州の未来を委ねる不正商慣行に対して、ノース・ダコタの人々は他の州のどこよりも抗議の声を上げた。第一次大戦の終わりには最初の農家所有の協同穀物倉庫の設立とともに、最終取引業者と取引イベントが活動を開始し、やっとのことで外部の事業者から州の経済的なコントロールをもぎとった。
1915年にはノースダコタ州は反乱の準備が整っていた。アーサー・C・タウンリー。非常に熱心な読書家で、元教師、そして27歳のときに破産した農家であるタウンリーは社会主義を受け入れ、ノースダコタ州の社会党の最も成功したオルガナイザーの一人となる。
1900年から1915年のあいだに社会主義はかなりの成功を収めた。マイノットの市長は社会党員であり、同様にラグビーとヒルズバロの市長も社会党員であった。社会党は州全体に候補者をたて、ピーク時には8%ほどの得票を得た。彼らは出席者の多い集会を持ち、週刊新聞を発行して草の根活動の体制を築き上げた。
オルガナイザーとしてタウンリーは農家から農家へと訪問し、社会党の綱領について農民たちに話した。党の改革案(州立穀物倉庫、銀行、農産物保険)に対する多くの支持があるとはいえ、農民たちが党を嫌っていることを、彼は早期に思い知る。タウンリーは社会党という名を伏せて社会党綱領を伝えるために影の組織を設立し、実際に社会党に加わっていることを知らない加入者を募った。彼は驚くほどに成功した。社会党のリーダーたちは激怒し、タウンリーと彼が雇った3人のオルガナイザーを解雇した。
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/economic_exploitation.html
ノースダコタ銀行について:州外支配 -マシンを打ち破る
州外からの支配 -マシンを打ち破る
州になるまでの准州に対する保護期間は通常は短い。(およそ数年間だけ)。ダコタ準州の州への昇格は、主に州外権益による反対によって28年間延期された。こうして州への昇格を求める戦いはノースダコタ州の特徴に、経済的植民地主義への反抗という原型と、地元の事柄に対する州外からの干渉への深い不信感を据えた。
1880年代には地元の政治家、アレクサンダー・マッケンジーがノースダコタ政界のボス・トウィード*であった。マッケンジーはノーザン・パシフィック鉄道の政治におけるエージェントであり、州資本の配置から州最高裁判事の任命に至るすべての政治決断を請け負い、鉄道会社に対して有利に取りはからった。(マシン政治を展開した悪名高いタマニーホールのウィリアム・M・トウィードの通称。「タマニー・ホール」といえば票の買収操作の代名詞であった。)
ノースダコタが長期の遅延の末に州への昇格を成し遂げた後、州は財政を安定させるために苦戦を強いられた。1890年から1901年の間に、豊作の年はたった4年間に過ぎなかった。そして鉄道会社は州内の土地の四分の一近くを所有しており、納税義務を怠っていた。
州外権益による経済支配のもとで擦り切れていき、ノースダコタ農民同盟は自立を試みたが、マッケンジー・マシン(集票組織)は事実上の改革がなされるのを阻んだ。
世紀の変わり目には大きな改革運動が合衆国で吹き荒れた。改革者たちは民主主義を実際に機能させ、有力な政界のボスの権力を打破し、トラストと独占を抑制し、法規制を通じて社会問題を解決しようと試みた。進歩党の候補者、セオドア・ルーズベルトとロバート・ラ=フォレットに対するノースダコタの有権者の支持は情勢変化の合図となった。
1906年、アレキサンダー・マッケンジーが汚職事件に巻き込まれたことを受け、ノースダコタの改革者たちはマッケンジー・マシン(集票組織)の権力を打破し、州の経済的興廃の真のコントロールを手にする時が来たと確信した。それには4年間を要したが、1910年には進歩党の候補者たちは重要な選挙で勝利しはじめた。“オーネスト・ジョン”・バーク*はマッケンジーの子飼いの知事候補を打ち破った。そして初めて進歩党は下院と上院の両方の議席をおさえた。(John Burkeのニックネーム。1907〜1913年までノースダコタ州知事を務める。Honest Johnは正直者の意。)
1911年の州議会で進歩党の全面的な改革政策が通過し、超党派連盟として知られる政治的な“大草原の野火”が登場する土台を作った。
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/breaking_the_machine.html
州になるまでの准州に対する保護期間は通常は短い。(およそ数年間だけ)。ダコタ準州の州への昇格は、主に州外権益による反対によって28年間延期された。こうして州への昇格を求める戦いはノースダコタ州の特徴に、経済的植民地主義への反抗という原型と、地元の事柄に対する州外からの干渉への深い不信感を据えた。
1880年代には地元の政治家、アレクサンダー・マッケンジーがノースダコタ政界のボス・トウィード*であった。マッケンジーはノーザン・パシフィック鉄道の政治におけるエージェントであり、州資本の配置から州最高裁判事の任命に至るすべての政治決断を請け負い、鉄道会社に対して有利に取りはからった。(マシン政治を展開した悪名高いタマニーホールのウィリアム・M・トウィードの通称。「タマニー・ホール」といえば票の買収操作の代名詞であった。)
ノースダコタが長期の遅延の末に州への昇格を成し遂げた後、州は財政を安定させるために苦戦を強いられた。1890年から1901年の間に、豊作の年はたった4年間に過ぎなかった。そして鉄道会社は州内の土地の四分の一近くを所有しており、納税義務を怠っていた。
州外権益による経済支配のもとで擦り切れていき、ノースダコタ農民同盟は自立を試みたが、マッケンジー・マシン(集票組織)は事実上の改革がなされるのを阻んだ。
世紀の変わり目には大きな改革運動が合衆国で吹き荒れた。改革者たちは民主主義を実際に機能させ、有力な政界のボスの権力を打破し、トラストと独占を抑制し、法規制を通じて社会問題を解決しようと試みた。進歩党の候補者、セオドア・ルーズベルトとロバート・ラ=フォレットに対するノースダコタの有権者の支持は情勢変化の合図となった。
1906年、アレキサンダー・マッケンジーが汚職事件に巻き込まれたことを受け、ノースダコタの改革者たちはマッケンジー・マシン(集票組織)の権力を打破し、州の経済的興廃の真のコントロールを手にする時が来たと確信した。それには4年間を要したが、1910年には進歩党の候補者たちは重要な選挙で勝利しはじめた。“オーネスト・ジョン”・バーク*はマッケンジーの子飼いの知事候補を打ち破った。そして初めて進歩党は下院と上院の両方の議席をおさえた。(John Burkeのニックネーム。1907〜1913年までノースダコタ州知事を務める。Honest Johnは正直者の意。)
1911年の州議会で進歩党の全面的な改革政策が通過し、超党派連盟として知られる政治的な“大草原の野火”が登場する土台を作った。
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/breaking_the_machine.html
ノースダコタ銀行について:州外からの支配 -経済的植民地主義
州外からの支配 -経済的植民地主義
準州時代以来、ノースダコタ州は決定権を支配する政府の腐敗と鉄道、金貸し、穀物取引の経済的三頭政治と苦闘していた。世紀の変わり目には、ノースダコタ州の経済はミネソタ州の穀物ブローカー、銀行家、そして鉄道会社の企業連合(カルテル)によって支配されていた。州の未来の経済状況はただ一つの産業ー農業ーそれも単作の小麦に基づいていた。幾人かの州のリーダーによる度重なる打開の努力にもかかわらず、カルテルによる輸送、取引、資金調達のコントロールは州をミネソタの植民地も同然の好ましくない状況に留めた。
ダコタ準州の鉄道建設に拍車を掛けるため、合衆国政府は土地の4つの区画毎から1つを鉄道会社に対して譲渡した。1800年代中頃には、鉄道会社がすべての準州の土地のうち、24%の権利を保有していた。彼らは州を越えて広範囲の鉄道網を敷き、自作農入植者をその地方に定住させるために誘い入れる大規模な広告キャンペーンを開始した。これは慈善事業ではなかった。鉄道会社は建設費用の埋め合わせと当面の収入源確保のために、乗客と貨物輸送の交通を築く必要があった。彼らは採算を取る必要があった。彼らは農民とその生産物の州外への輸送が必要であった。
農民たちが新たに居住地域となったレッド川流域に殺到するにつれて、大規模なミネアポリスの穀物製粉業者らは、ダコタ準州で栽培された小麦に対する同業者間の争いをなくすために組合を設立した。組合は穀物倉庫を所有し、国内の他の地域よりも遥かに安い価格に抑えた小麦をノースダコタの農民から買い付けた。そのうえ、鉄道会社はミネアポリスの穀物製粉業者と手を組み、輸送価格を高く設定したが、無所属の仲介業者を追い払うために組合員にはリベートを渡した。
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/economic_colonialism.html
準州時代以来、ノースダコタ州は決定権を支配する政府の腐敗と鉄道、金貸し、穀物取引の経済的三頭政治と苦闘していた。世紀の変わり目には、ノースダコタ州の経済はミネソタ州の穀物ブローカー、銀行家、そして鉄道会社の企業連合(カルテル)によって支配されていた。州の未来の経済状況はただ一つの産業ー農業ーそれも単作の小麦に基づいていた。幾人かの州のリーダーによる度重なる打開の努力にもかかわらず、カルテルによる輸送、取引、資金調達のコントロールは州をミネソタの植民地も同然の好ましくない状況に留めた。
ダコタ準州の鉄道建設に拍車を掛けるため、合衆国政府は土地の4つの区画毎から1つを鉄道会社に対して譲渡した。1800年代中頃には、鉄道会社がすべての準州の土地のうち、24%の権利を保有していた。彼らは州を越えて広範囲の鉄道網を敷き、自作農入植者をその地方に定住させるために誘い入れる大規模な広告キャンペーンを開始した。これは慈善事業ではなかった。鉄道会社は建設費用の埋め合わせと当面の収入源確保のために、乗客と貨物輸送の交通を築く必要があった。彼らは採算を取る必要があった。彼らは農民とその生産物の州外への輸送が必要であった。
農民たちが新たに居住地域となったレッド川流域に殺到するにつれて、大規模なミネアポリスの穀物製粉業者らは、ダコタ準州で栽培された小麦に対する同業者間の争いをなくすために組合を設立した。組合は穀物倉庫を所有し、国内の他の地域よりも遥かに安い価格に抑えた小麦をノースダコタの農民から買い付けた。そのうえ、鉄道会社はミネアポリスの穀物製粉業者と手を組み、輸送価格を高く設定したが、無所属の仲介業者を追い払うために組合員にはリベートを渡した。
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/economic_colonialism.html
ノースダコタ銀行について:序文
序文
2005年、プレーリー・パブリック・プロダクションは、農務省農村開発基金の寛大なるサポートを通じて、ノースダコタ銀行についてのテレビ・ドキュメンタリーを制作した。本作品は、国内唯一の州立銀行として、ノースダコタ銀行独特の歴史に焦点を当てている。以下に続く史的概略は、プレーリー・パブリック・テレビジョンのご好意によって提供されたものである。
ノースダコタ州の最も大きな銀行が州立であり、州によって運営されていることに多くの人は驚かされた。これはアメリカ合衆国内でも唯一の存在である。
1919年、無党派連盟に率いられた農民の反乱は、永久にノースダコタ州の経済風景を変化させた。『州コントロールによる社会実験』と呼ばれる連盟の産業計画は、州経済をコントロールしてきた州外の投資家による支配を終わらせることを求めた。
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/index.html
2005年、プレーリー・パブリック・プロダクションは、農務省農村開発基金の寛大なるサポートを通じて、ノースダコタ銀行についてのテレビ・ドキュメンタリーを制作した。本作品は、国内唯一の州立銀行として、ノースダコタ銀行独特の歴史に焦点を当てている。以下に続く史的概略は、プレーリー・パブリック・テレビジョンのご好意によって提供されたものである。
ノースダコタ州の最も大きな銀行が州立であり、州によって運営されていることに多くの人は驚かされた。これはアメリカ合衆国内でも唯一の存在である。
1919年、無党派連盟に率いられた農民の反乱は、永久にノースダコタ州の経済風景を変化させた。『州コントロールによる社会実験』と呼ばれる連盟の産業計画は、州経済をコントロールしてきた州外の投資家による支配を終わらせることを求めた。
http://www.banknd.nd.gov/about_BND/prairie_public_history_of_BND/index.html
通貨の新たな理論のとき
エレン・ホッジソン・ブラウン著 (2010/10/31)
私たちの金融システムが、(現在私たちが戦っているよう な)不況の周期的な波とともに定期的に問題に陥る理由は、銀行業と信用の役割だけではなく、通貨の本質そのものに対する欠陥のある認識に因るものであろ う。経済の成長期において、私たちは通貨を関係性から独立したなんらかの“モノ”として見なし、助長してきた。しかし今日、金や銀は私たちの通貨を裏付け てはいない。その代わりに、通貨は銀行によって貸付けが行なわれるときに創造される。(これには連邦準備券やドル札が含まれる。これらは民間の銀行法人である連邦準備銀行によって創造され、経済主体へと貸付けられる)。事実上、今日のすべての通貨は信用、もしくは負債に由来しており、それは将来に支払うという単なる法的契約である。
【関係性としての通貨】
オーストリア学派のレビューにある【vol.14:4, P.267~317, 2001年】『信用と通貨の一般理論にむけて』という啓示的な論文のなかで、モスタファ・モワニ氏(オクラホマシティ大学経済学教授)はこう論じる。「通貨が真に“商品”や“モノ”であったことは一度としてない。それは常に単なる“関係性”、法的契約、信用/債務整理、負債の承認、そして返済約束である」。
通貨は商品であるという観念は、貴金属コインの使用に遡ることができる。金は最も古く、最も安定した通貨として認められていると広く主張されるが、これは実 際には正確ではない。通貨は金貨とともに始まり、洗練された会計制度へと進化したのではない。それは会計制度として始まり、そして貴金属コインへと発展し たのだ。“勘定単位”(支払い済みと未払金の総計の記録)としての通貨は、“価値の保存”としての通貨(“商品”もしくは“モノ”)よりも2000年前に さかのぼる。シュメール、エジプト文明は、こうした会計記入による決済方式を使用しており(幾つかの文明が金を使用しているように)数百年間持続しただけ ではなく、数千年間にも及ぶ。彼らの銀行のような古代の決済システムは、今日、公共サービスとして法廷、図書館、郵便局が運営される様に、政府によって運 営される公共システムであった。
古代シュメールの決済方式では、品物は重量によっ て価値が与えられ、品物単位で互いに測定された。重量の単位は「シェケル」であり、もともと硬貨であった何らかではないが、標準的尺度であった。それは大 麦という単語であり、元来の計量単位が穀物の重量であったことを思い起こさせる。これは重量によって、他の商品に相応する価値を持っていた。(同数の小麦 のシェケル、同数の牛、同数の銀のシェケルとは等価であった、等々)。主要な商品の価格は政府によって固定されていた。バビロンの王で立法者であるハムラ ビは、これらの計算表を詳細に定めた。利子も同様に固定され、不変であり、経済的生活を全く予測可能なものとした。
穀物は穀倉に貯蔵され、穀倉は“銀行”の一形態として役目を果たした。しかし穀物は腐りやすいものであったため、最終的に銀が支払うべき総計を表す標準的な 割り符となった。農夫は市場へ行き、彼の腐りやすい商品を銀と交換することができ、そして都合のよいときに、必要に応じた他の商品をこの市場の信用で買い 戻すことができた。しかし、これは依然として単純に債務の割り符であり、これに対して後払いをする権利であった。最終的に、銀の割り符は木製の割り符とな り、紙の割り符となり、そして電子の割り符となった。
【信用革命】
金貨 による問題は、貿易の要求を満たすための拡大が不可能であったことにあるだろう。中世の銀行家たちから進歩した革命家は、フレキシブルな通貨供給を創造す ることに成功し、勢い良く膨張する重商主義の貿易と足並みを揃えることができた。彼らはこれを預金者の口座に貸越金を支給することで創造する、信用貸しの 利用を通して行なった。のちに「部分準備制度」(信用創造)と呼ばれることになる方法の下で、銀行家たちは実際に所有する金の量よりも多くの銀行券と呼ば れる紙の受領書を発行したのだろう。彼らの海運業の依頼人たちは、製品とともに出航し、銀や金とともに戻ってきて清算をおこない、銀行家たちの帳簿の収支 を合わせることを可能にした。このように創造された信用は、急速に膨張する経済のもとで、大きな需要があった。しかし、通貨は“モノ”(金)であるという 推定に基づいていたため、銀行家たちはペテンに携わらねばならず、周期的に彼らを問題に追い込んだ。彼らは、顧客のすべてが一斉に金を引き出すことはない だろうという危険な賭けを行なっていたが、彼らが計算を見誤るか、人々が何らかの理由によって疑念を抱いたときには取り付け騒ぎが発生し、金融システムは 崩壊し、経済は不況に落ち込むこととなった。
今日、もはや紙幣は金に償還すること はできないが、通貨は依然として“モノ”として見なされ、それは信用が貸付けられる以前に“ある”ものとして見なされている。銀行は今まで通り銀行信用を、前貸しすることによる信用創造に携わっており、それは借り手の口座の預金となり、小切手となる。しかしながら、彼らの支出分の小切手が整然と清算され るために、銀行は、彼らの顧客が預金した通貨のプールから借り入れねばならない。もし十分な預金がなければ、彼らは金融市場、もしくは他の銀行から借り入れなければならない
イギリスの作家、アン・ ペティフォアはこのように指摘する:
『実体経済に貸出を行なうマシンとして働くという、銀行制度本来の目的は機能しなくなっている。その代わりに銀行制度の目的は逆に向けられて、借入マシンとなっている』。
銀行は低金利資金を吸い上げ、返還するにしても、高金利にして返還する。銀行は通貨の蛇口をコントロールし、小口の参加者への貸付けを拒否することができ、 彼らのローンを債務不履行にすることで巻き上げて、大口の参加者に、基礎となる純資産を買い占めるための手段として低金利クレジットを提供する。
これが現行スキームにおける、一つの制度上の欠陥である。その他では、銀行のローンを支援する借入金は、通常、短期ローンである。ジミー・スチュワートの 『素晴らしい人生』の貯蓄貸付組合のように、銀行は“長く貸付ける為に、短く借り入れる”。そして金融市場が突如として干上がると、銀行は大変なことにな る。これが2008年の9月に起こった出来事である。2009年2月に下院議員のポール・カンジョルスキーがC-Span*で述べたところによると、5兆5000億ドルの取り付け騒ぎが金融市場に起こった。(*政治を専門とするケーブルチャンネル)
【証券化:金ではなく家をもとにした貸付金の貨幣化】
金 融市場は大口の機関投資家たちが資金を預ける“影の銀行システム”の一部である。影の銀行システムは、現在、預金取扱機関に課されている資本および預金準 備率*を銀行が回避することを容認する。帳簿記載とは別に貸付金を動かすことによって。大口の機関投資家たちが影の銀行システムを利用するのは、従来の銀 行システムでは、25万ドルまでの預金しか保証されず、大口の機関投資家たちは日常的にあちこちへと移動させるためにそれよりも多く保有しているからだ。 金融市場はとても流動的であり、それは“証券化”、もしくは何らかの有価証券によって担保され、連邦預金保険会社の変わりに保護する。しばしば、不動産担 保証券で構成される担保物件、米国の不動産の証券化単位は、切り分けられてパッケージされた“ソーセージ型”となっている。
(*市中銀行の保有預金の内法定割合を高流動性資産で保有させる制度。実際には連邦準備銀行に無利子で預け入れさせる)。
17世紀には金も同様に幾度となく貸付けられた。同じ家が同時に幾つか別々の投資家グループによって“担保”として抵当にいれられた。このことはすべて、 MERS*と呼ばれる電子のカーテンの裏で為されている。これは、複数によって共有された家屋をごちゃ混ぜにすることで、地域的な登記法を回避しながら、 所有者をすばやく入れ替えることを可能にする。
(Mortgage Electronic Registration Systems, Inc. - 米国の抵当権付き住宅ローンの新株引き受け権と所有権の運用を辿るためにデザインされた電子登録を運営する非公開企業)。
しかしながら17世紀と同様、一つ以上の投資グループが 同時に担保権を行使しようとしたとき、計画は問題に陥る。そして証券化モデルはいまや、数百年続く州の不動産法の固い岩に衝突している。これには、銀行が 直面することの無かった、確実な必要条件がある。もしかれらが、不動産担保証券の税法に応じるならば、取り組むことができない。【これについての更なる情報はこちら】)
銀行家たちは大規模な詐欺に等しいことに携わってきた。やむを得ずではなく、彼らは商品(この場合は不動産)を担保して提案するために必要であったという理 由で犯意とともに着手したからだ。(拒絶されるはずがないけれども)。これが私たちのシステムに取り付けられた手段だ:銀行は実のところ、信用を創造して 私たちに貸し出してはおらず、償還するために私たちの将来の生産性を当てにしている。かつて行なった、欺瞞的であると同時に機能的外観の部分準備貸出とい う方法で。それどころか、彼らは私たちのお金を吸い上げ、高利でそれを私たちに貸し戻している。影の銀行システムのもとで、彼らは私たちの不動産を吸い上 げ、年金基金と投資信託に複利で貸し戻している。果ては数学的に不可能なねずみ講であり、本質的な制度欠陥の傾向がある。
【公共信用の解決】
現行の制度的欠陥は、いまや大手のメディアによって露わにされており、落下していくのも無理は無い。疑問は、そのとき何に置き換えるかということになる。私たちの経済的発展のために、何が合理的に導入されるだろうか?
信用が最初にくる必要がある。私たちはコミュニティとして、ポールに返済するために、常にピーターから借りているといった、複利で、一種のねずみ講に携わる こと無く、私たち独自の信用を創造することができる。私たちは、公共の信用制度、コミュニティ・メンバーの将来の生産性に基づいた取引システムに基づい て、私的に発行される信用の落し穴に陥ることを避けることができる。露にされた、不安定なペテン、秘密裏にシャッフルされた“モノ”による保証ではなく。
最もシンプルな公共信用のモデルは、電子地域通貨システムである。例えば、“フレンドリー・フェイバー” と呼ばれるものについて考えてみる。このインターネット・コミュニティに参加するために、現在、民間銀行制度から要求されるように、資本基金や準備基金か ら始める必要はない。そしてまた、メンバーが既に存在している通貨のプールから、所有者に対して利子を支払って借りる必要もない。メンバーは単に、自分の 口座の借方に記入し、誰かの口座の貸方に記入をするだけで、独自の信用を創造する。もしジェーンがスーにクッキーを焼き、スーがジェーンの口座の貸方に5 フェイバーと記入し、自身の口座の借方に5と記入したとする。彼らは銀行がするのと同じ方法で通貨を“創造”したことになる。しかし、結果はインフレを誘 発しない。ジェーンの+5はスーの−5と釣り合いを保つ。そしてスーが彼女の負債を、誰かに対して何らかを行なうことで弁済すれば、すべてが差し引かれ る。これはゼロサムゲームだ。
地域通貨システムは、小規模ではとても実用的になり えるが、国民通貨と交換を行なわないため、大規模なビジネスやプロジェクトに対しては制限されすぎる傾向がある。もし地域通貨が実質的に大規模に発展する ならば、小規模な地方を苦しめる、一種の為替レートの問題に突き当たるだろう。地域通貨は基本的にバーターであり、じっさい大規模な信用の促進するために は設計されていない。
地域通貨システムに相当する機能は、公共所有の銀行をつくる ことによって、国民通貨の使用でも達成できる。銀行業をコミュニティの利益のために働く公共事業へと転換することによって、中世的な銀行家たちによって保 持されていた拡張可能な信用制度の利点は、同時に、民間銀行の計画にありがちな、コミュニティへの寄生的な搾取を退けていく。コミュニティによって生成された利益を、コミュニティへと還元することができる。
国民通貨で信用を生成する公共銀行は、コミュニティやどんなサイズのグループによっても設立できるだろう。しかし、資本、預金準備、そして他の厳重な銀行法がある限り、州(政府)は最も適した選択である。州は共同所有者の支払能力を脅かすことなく、こうした必要条件を容易に満たすことができる。
資本として州銀行は、様々な公共基金として貯蔵された資金を使用することができるだろう。この資金は使い果たさなくてもよい。それはただ、現在資金が預けられているウォール街への投資を、州の所有する銀行へと移し替えるだけで可能である。ここに、州立銀行がとても健全で、有利な投資になり得ると判明した先例がある。現在のところ国内で唯一の州立銀行である、ノースダコタ銀行はAAに格付けされ、最近では利益の26%を州に返還した。この選択肢を模索し、実行する脱中央化の動きが、アメリカ合衆国内で広がっている。【更なる情報はwww.pubilc-banking.com.】
私たちは新たな明瞭さを伴って金融危機から浮上する。今日の通貨は純粋な信用である。信用が銀行によって促進されるとき、銀行がコミュニティによって所有さ れるとき、そして利潤がコミュニティに還元されるときに、その効果は、財政の機能的で効率的な、持続可能性のあるシステムとなることができる。
私たちの金融システムが、(現在私たちが戦っているよう な)不況の周期的な波とともに定期的に問題に陥る理由は、銀行業と信用の役割だけではなく、通貨の本質そのものに対する欠陥のある認識に因るものであろ う。経済の成長期において、私たちは通貨を関係性から独立したなんらかの“モノ”として見なし、助長してきた。しかし今日、金や銀は私たちの通貨を裏付け てはいない。その代わりに、通貨は銀行によって貸付けが行なわれるときに創造される。(これには連邦準備券やドル札が含まれる。これらは民間の銀行法人である連邦準備銀行によって創造され、経済主体へと貸付けられる)。事実上、今日のすべての通貨は信用、もしくは負債に由来しており、それは将来に支払うという単なる法的契約である。
【関係性としての通貨】
オーストリア学派のレビューにある【vol.14:4, P.267~317, 2001年】『信用と通貨の一般理論にむけて』という啓示的な論文のなかで、モスタファ・モワニ氏(オクラホマシティ大学経済学教授)はこう論じる。「通貨が真に“商品”や“モノ”であったことは一度としてない。それは常に単なる“関係性”、法的契約、信用/債務整理、負債の承認、そして返済約束である」。
通貨は商品であるという観念は、貴金属コインの使用に遡ることができる。金は最も古く、最も安定した通貨として認められていると広く主張されるが、これは実 際には正確ではない。通貨は金貨とともに始まり、洗練された会計制度へと進化したのではない。それは会計制度として始まり、そして貴金属コインへと発展し たのだ。“勘定単位”(支払い済みと未払金の総計の記録)としての通貨は、“価値の保存”としての通貨(“商品”もしくは“モノ”)よりも2000年前に さかのぼる。シュメール、エジプト文明は、こうした会計記入による決済方式を使用しており(幾つかの文明が金を使用しているように)数百年間持続しただけ ではなく、数千年間にも及ぶ。彼らの銀行のような古代の決済システムは、今日、公共サービスとして法廷、図書館、郵便局が運営される様に、政府によって運 営される公共システムであった。
古代シュメールの決済方式では、品物は重量によっ て価値が与えられ、品物単位で互いに測定された。重量の単位は「シェケル」であり、もともと硬貨であった何らかではないが、標準的尺度であった。それは大 麦という単語であり、元来の計量単位が穀物の重量であったことを思い起こさせる。これは重量によって、他の商品に相応する価値を持っていた。(同数の小麦 のシェケル、同数の牛、同数の銀のシェケルとは等価であった、等々)。主要な商品の価格は政府によって固定されていた。バビロンの王で立法者であるハムラ ビは、これらの計算表を詳細に定めた。利子も同様に固定され、不変であり、経済的生活を全く予測可能なものとした。
穀物は穀倉に貯蔵され、穀倉は“銀行”の一形態として役目を果たした。しかし穀物は腐りやすいものであったため、最終的に銀が支払うべき総計を表す標準的な 割り符となった。農夫は市場へ行き、彼の腐りやすい商品を銀と交換することができ、そして都合のよいときに、必要に応じた他の商品をこの市場の信用で買い 戻すことができた。しかし、これは依然として単純に債務の割り符であり、これに対して後払いをする権利であった。最終的に、銀の割り符は木製の割り符とな り、紙の割り符となり、そして電子の割り符となった。
【信用革命】
金貨 による問題は、貿易の要求を満たすための拡大が不可能であったことにあるだろう。中世の銀行家たちから進歩した革命家は、フレキシブルな通貨供給を創造す ることに成功し、勢い良く膨張する重商主義の貿易と足並みを揃えることができた。彼らはこれを預金者の口座に貸越金を支給することで創造する、信用貸しの 利用を通して行なった。のちに「部分準備制度」(信用創造)と呼ばれることになる方法の下で、銀行家たちは実際に所有する金の量よりも多くの銀行券と呼ば れる紙の受領書を発行したのだろう。彼らの海運業の依頼人たちは、製品とともに出航し、銀や金とともに戻ってきて清算をおこない、銀行家たちの帳簿の収支 を合わせることを可能にした。このように創造された信用は、急速に膨張する経済のもとで、大きな需要があった。しかし、通貨は“モノ”(金)であるという 推定に基づいていたため、銀行家たちはペテンに携わらねばならず、周期的に彼らを問題に追い込んだ。彼らは、顧客のすべてが一斉に金を引き出すことはない だろうという危険な賭けを行なっていたが、彼らが計算を見誤るか、人々が何らかの理由によって疑念を抱いたときには取り付け騒ぎが発生し、金融システムは 崩壊し、経済は不況に落ち込むこととなった。
今日、もはや紙幣は金に償還すること はできないが、通貨は依然として“モノ”として見なされ、それは信用が貸付けられる以前に“ある”ものとして見なされている。銀行は今まで通り銀行信用を、前貸しすることによる信用創造に携わっており、それは借り手の口座の預金となり、小切手となる。しかしながら、彼らの支出分の小切手が整然と清算され るために、銀行は、彼らの顧客が預金した通貨のプールから借り入れねばならない。もし十分な預金がなければ、彼らは金融市場、もしくは他の銀行から借り入れなければならない
イギリスの作家、アン・ ペティフォアはこのように指摘する:
『実体経済に貸出を行なうマシンとして働くという、銀行制度本来の目的は機能しなくなっている。その代わりに銀行制度の目的は逆に向けられて、借入マシンとなっている』。
銀行は低金利資金を吸い上げ、返還するにしても、高金利にして返還する。銀行は通貨の蛇口をコントロールし、小口の参加者への貸付けを拒否することができ、 彼らのローンを債務不履行にすることで巻き上げて、大口の参加者に、基礎となる純資産を買い占めるための手段として低金利クレジットを提供する。
これが現行スキームにおける、一つの制度上の欠陥である。その他では、銀行のローンを支援する借入金は、通常、短期ローンである。ジミー・スチュワートの 『素晴らしい人生』の貯蓄貸付組合のように、銀行は“長く貸付ける為に、短く借り入れる”。そして金融市場が突如として干上がると、銀行は大変なことにな る。これが2008年の9月に起こった出来事である。2009年2月に下院議員のポール・カンジョルスキーがC-Span*で述べたところによると、5兆5000億ドルの取り付け騒ぎが金融市場に起こった。(*政治を専門とするケーブルチャンネル)
【証券化:金ではなく家をもとにした貸付金の貨幣化】
金 融市場は大口の機関投資家たちが資金を預ける“影の銀行システム”の一部である。影の銀行システムは、現在、預金取扱機関に課されている資本および預金準 備率*を銀行が回避することを容認する。帳簿記載とは別に貸付金を動かすことによって。大口の機関投資家たちが影の銀行システムを利用するのは、従来の銀 行システムでは、25万ドルまでの預金しか保証されず、大口の機関投資家たちは日常的にあちこちへと移動させるためにそれよりも多く保有しているからだ。 金融市場はとても流動的であり、それは“証券化”、もしくは何らかの有価証券によって担保され、連邦預金保険会社の変わりに保護する。しばしば、不動産担 保証券で構成される担保物件、米国の不動産の証券化単位は、切り分けられてパッケージされた“ソーセージ型”となっている。
(*市中銀行の保有預金の内法定割合を高流動性資産で保有させる制度。実際には連邦準備銀行に無利子で預け入れさせる)。
17世紀には金も同様に幾度となく貸付けられた。同じ家が同時に幾つか別々の投資家グループによって“担保”として抵当にいれられた。このことはすべて、 MERS*と呼ばれる電子のカーテンの裏で為されている。これは、複数によって共有された家屋をごちゃ混ぜにすることで、地域的な登記法を回避しながら、 所有者をすばやく入れ替えることを可能にする。
(Mortgage Electronic Registration Systems, Inc. - 米国の抵当権付き住宅ローンの新株引き受け権と所有権の運用を辿るためにデザインされた電子登録を運営する非公開企業)。
しかしながら17世紀と同様、一つ以上の投資グループが 同時に担保権を行使しようとしたとき、計画は問題に陥る。そして証券化モデルはいまや、数百年続く州の不動産法の固い岩に衝突している。これには、銀行が 直面することの無かった、確実な必要条件がある。もしかれらが、不動産担保証券の税法に応じるならば、取り組むことができない。【これについての更なる情報はこちら】)
銀行家たちは大規模な詐欺に等しいことに携わってきた。やむを得ずではなく、彼らは商品(この場合は不動産)を担保して提案するために必要であったという理 由で犯意とともに着手したからだ。(拒絶されるはずがないけれども)。これが私たちのシステムに取り付けられた手段だ:銀行は実のところ、信用を創造して 私たちに貸し出してはおらず、償還するために私たちの将来の生産性を当てにしている。かつて行なった、欺瞞的であると同時に機能的外観の部分準備貸出とい う方法で。それどころか、彼らは私たちのお金を吸い上げ、高利でそれを私たちに貸し戻している。影の銀行システムのもとで、彼らは私たちの不動産を吸い上 げ、年金基金と投資信託に複利で貸し戻している。果ては数学的に不可能なねずみ講であり、本質的な制度欠陥の傾向がある。
【公共信用の解決】
現行の制度的欠陥は、いまや大手のメディアによって露わにされており、落下していくのも無理は無い。疑問は、そのとき何に置き換えるかということになる。私たちの経済的発展のために、何が合理的に導入されるだろうか?
信用が最初にくる必要がある。私たちはコミュニティとして、ポールに返済するために、常にピーターから借りているといった、複利で、一種のねずみ講に携わる こと無く、私たち独自の信用を創造することができる。私たちは、公共の信用制度、コミュニティ・メンバーの将来の生産性に基づいた取引システムに基づい て、私的に発行される信用の落し穴に陥ることを避けることができる。露にされた、不安定なペテン、秘密裏にシャッフルされた“モノ”による保証ではなく。
最もシンプルな公共信用のモデルは、電子地域通貨システムである。例えば、“フレンドリー・フェイバー” と呼ばれるものについて考えてみる。このインターネット・コミュニティに参加するために、現在、民間銀行制度から要求されるように、資本基金や準備基金か ら始める必要はない。そしてまた、メンバーが既に存在している通貨のプールから、所有者に対して利子を支払って借りる必要もない。メンバーは単に、自分の 口座の借方に記入し、誰かの口座の貸方に記入をするだけで、独自の信用を創造する。もしジェーンがスーにクッキーを焼き、スーがジェーンの口座の貸方に5 フェイバーと記入し、自身の口座の借方に5と記入したとする。彼らは銀行がするのと同じ方法で通貨を“創造”したことになる。しかし、結果はインフレを誘 発しない。ジェーンの+5はスーの−5と釣り合いを保つ。そしてスーが彼女の負債を、誰かに対して何らかを行なうことで弁済すれば、すべてが差し引かれ る。これはゼロサムゲームだ。
地域通貨システムは、小規模ではとても実用的になり えるが、国民通貨と交換を行なわないため、大規模なビジネスやプロジェクトに対しては制限されすぎる傾向がある。もし地域通貨が実質的に大規模に発展する ならば、小規模な地方を苦しめる、一種の為替レートの問題に突き当たるだろう。地域通貨は基本的にバーターであり、じっさい大規模な信用の促進するために は設計されていない。
地域通貨システムに相当する機能は、公共所有の銀行をつくる ことによって、国民通貨の使用でも達成できる。銀行業をコミュニティの利益のために働く公共事業へと転換することによって、中世的な銀行家たちによって保 持されていた拡張可能な信用制度の利点は、同時に、民間銀行の計画にありがちな、コミュニティへの寄生的な搾取を退けていく。コミュニティによって生成された利益を、コミュニティへと還元することができる。
国民通貨で信用を生成する公共銀行は、コミュニティやどんなサイズのグループによっても設立できるだろう。しかし、資本、預金準備、そして他の厳重な銀行法がある限り、州(政府)は最も適した選択である。州は共同所有者の支払能力を脅かすことなく、こうした必要条件を容易に満たすことができる。
資本として州銀行は、様々な公共基金として貯蔵された資金を使用することができるだろう。この資金は使い果たさなくてもよい。それはただ、現在資金が預けられているウォール街への投資を、州の所有する銀行へと移し替えるだけで可能である。ここに、州立銀行がとても健全で、有利な投資になり得ると判明した先例がある。現在のところ国内で唯一の州立銀行である、ノースダコタ銀行はAAに格付けされ、最近では利益の26%を州に返還した。この選択肢を模索し、実行する脱中央化の動きが、アメリカ合衆国内で広がっている。【更なる情報はwww.pubilc-banking.com.】
私たちは新たな明瞭さを伴って金融危機から浮上する。今日の通貨は純粋な信用である。信用が銀行によって促進されるとき、銀行がコミュニティによって所有さ れるとき、そして利潤がコミュニティに還元されるときに、その効果は、財政の機能的で効率的な、持続可能性のあるシステムとなることができる。
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