次の日は再度、もっとも被害のひどいエリアにもどってきた。昨晩の会議の結果、そしてパートナーを組んでいた"組長"と話し合い、被災者の方々自身によるコミュニティの形成や組織化を後押ししていくことを目指すことにした。しかしそれは言うほど簡単なことではない。彼らは被災者だが日常へ戻りたいという意志を当然持っており、その日常とは地震以前の日常だ。また取り仕切り役を間違えてしまえば、今後の彼らの近隣関係に暗い影を落とすことにもなりかねない。支援物資を手渡すとき、多くの人はなにかお返ししたいという気持ちを表してくれた。缶コーヒーを持ってくる人もいたし、ダンボールをたたむのを手伝ってくれたり、お幾らですか?と尋ねる人もいた。避難所で余ったおにぎりやパンを貰うこともあった。実際おにぎりやパンは余り始めていた。賞味期限切れのものが配られることも少なくなく、また2週間以上もの間、同じおにぎりとパンを食べ続けている。よくない。避難所には細菌性の腸炎やインフルエンザもはやり始めている。彼らには生鮮食品と調理する道具が必要だ。
海沿いから少しはいった川口町2丁目で物資の配布をおこなったとき、われわれを手伝ってくれた年配の男性はとても手馴れていた。一通り作業が終わり、ダンボールを片付けていたときに話を聞くと、災害ボランティアの経験があるとのことだった。どおりで私たちよりも手馴れているわけだ。またこうした支援物資の分配についての問題点もよく心得ているようだった。私たちは彼の庭を炊き出しや物資の集積所として開放してもらえないかと打診し、快諾をえた。ここなら大丈夫だろう。
もう少し込み入った場所、車や倒壊した家々が道を塞ぎ、中まで車で入りづらいところにきた。年配の方々と若い人たちが泥だしを懸命におこなっている。支援物資の配布を告げてもわれわれが少し邪魔そうだった。ほどなく取り仕切っているだろう年配の男性が車で現れたがわれわれの車が邪魔だと悪態をついた。邪魔するなら物資なんか持ってくるな、とかなんとか。詳しく話を聞こうと、足りない物資はないか、困っていることはないかといろいろと尋ねると、この男性が近くの農家のかたで、この地区で一人で暮らすご老人を20名ばかり自宅に避難させていることがわかった。生鮮食品は余るくらいあると語った。一人で家の片づけがままならないこうしたご老人たちの家の泥だしとスクラップと化した日用品の片づけを行っている最中だったのだ。人には色々と理由がある。私たちはお互いにがんばりましょうと声をかけあい、笑顔で別れた。ここでは活動的な年配のかたに多く出会った。ここで出会う人々からは、概ね自分は大丈夫だから必要な人のところにいってあげてくれと言われることが本当に多かった。
県営住宅で出会った岸本さんもそうしたうちの一人だ。7階だての住宅には200人以上のかたが生活を営んでおり、単身のご老人も少なくない。エレベーターはもちろん動かず、水道、ガス、電気は止まったままだ。入り口にいた人に、ここを取り仕切っている方と話がしたいというと、5階の岸本さんがそうだと教えてくれた。岸本さんの家へ訪れると、彼はおらず、奥さんがでてきて、驚いたことに彼に関する愚痴を聞かされた。『地震以来、朝起きたときから寝るまでずっとマンションのことを考えていて、自分の家のことはなんにもやってくれなくって。。』と話す彼女はそれほど困った様子もみせず、暖かい気持ちになった。地震と津波直後にあらゆるインフラが止まったとき、岸本さんは屋上の貯水タンクにいき、自分が責任をとるからとマンションに住む若い人に鍵を壊して貯水タンクの蓋をあけてもらい住人に水を配っていたという話をしてくれた。やはり彼女は嬉しそうだ。岸本さんを見つけて、なにが必要かを訪ねると給水車がほしいといった。避難所である小学校に来る給水車まで水を取りにいくのは老人には酷だからだ。再三、市役所のほうにも連絡したらしいが、市役所の機能もままならない状態だ。なんせ職員の半数は津波に飲まれてしまったのだから。当面は私たちのほうでミネラルウォーターを手配することにした。そしてもうひとつのニーズは、一階の泥だし、ごみだしと消毒だ。確かにあらゆるものが水と泥にまみれ、満潮時には水に浸かる地盤沈下の状況にある現在、あらゆる生態系が泥のなかで育っており、これはいいはずがない。ボランティアの別部隊に泥だし部隊がいる。早速今夜の合同会議でマッドバスターズを組織してもらうことにする。最後の日、昨日訪れた県営住宅の入り口で炊き出しを準備した。約100人は出勤し、会社のほうの片づけを手伝うので住宅に残る約100人分の炊き出しだ。ここに来てからコミュニケーション以外はじめての、なにか物を作る、唯一創造的な作業だった。マッドバスターズは車が足りず、組織できない。急慮、また別組織が準備していたEM菌による雑菌の分解、消毒の作業を手配した。年配者にとって消毒とは石灰を撒くことを意味するので、喜んでくれるかどうかはわからないが、明らかにこちらのほうが有益であるはずだ。ここ数日パートナーを組んでいた広島からきた”組長”にここの建物の引継ぎを終え、炊き出しと清掃が始まる前に石巻をあとにした。
来週には石巻、女川にむけて再度出発するつもりだ。そして一番の懸念のひとつである福島周辺へ向かい、避難を進める方法を模索する。それまで安定状態にあるとは思えず、向かうことすらかなわない状況に陥る可能性は依然としてある。、放射能が目に見えず、匂いもなく、痛みもないことからくる楽観的な状況はまずいと肌身に感じた。帰りしなに、原発から60キロ離れた二本松市にヨード剤を手渡しによったが、空間線量はここでも高い数値を示す。ファミレスでは高校生くらいの女の子たちが楽しそうに、また普段どおりキャッキャと騒いでいる。カウンタがなければ私たちはそれがあることすら知ることができない。通常値を計測していないので正確な数値ではないが、東北道のインターチェンジの土壌をガイガーカウンタで計測しながら帰ってきたところ、80キロ~100キロ圏の土壌からもアルファ線が2~3倍検出される。この状況でなにができるか。まずは状況の把握から始めることになるだろう。
石巻2
石巻の市内のFM局が普段よりも遠くに放送を飛ばしていた。夕方、小道が流された車や倒壊した家々で塞がれた湊町を周っていたときに、FM石巻からカウンターテナーのAve Mariaが流れてきた。目の前には街灯が十字架のように斜めに地面に突き刺さっている。
一日目の作業を終えた後、雨と雪にさらされたレインコートとその上に着ていたスキー服をガイガーカウンタで調べた。総量は約43-69cpmといったところで、約2~3倍といっていいだろう。アルファ線を検出するデバイスでは0.安心した。これで放射能被害が加わってはここの人々はたまらない。土壌の放射線量は計測していない。29日には、被災者が飲み水にしていた湧き水から放射性物質が検出され、市が飲むのをやめるようにとの通達をだした。水道水では検出されておらず。今は北風だからこの程度で済んでいるが、春風が吹くころはこの通りではないだろう。
3日目に一緒になったのがやはり個人ボランティアのかたで、45歳くらいかな、ばりばりの広島弁であだ名は組長。やはり専修大学のキャンパスにテントを張って住んでおり、バイクでよく旅をする大工の彼のDIY能力は非常に優れている。彼もやはり、居ても立ってもいられずに石巻へ来た一人だ。私たちは海からすこし離れた住宅地へと向かった。ここでは家々は倒壊せずに普通に建っており、一見ごく普通なのだが電気、ガス、水道は通っておらず、また親戚、友人家族が港周辺から避難してきて一緒に住んでいる家も多い。一つの家に4~5世帯が避難していることもあった。家が普通に建っていて、個人的に避難をしている人々は避難所に登録していないため、見過ごされていることの多い地域。倒壊の激しいエリアとは別の問題がここにはある。オープンし始めるスーパーもあるが、朝から大行列、店に入るころには物はないという状態。道に歩いている人や近所を聞いて周って避難者を探し出す。一人の女性に、目の不自由な按摩さんや身障者のひとたちが避難している石巻サウナへ行ってくれと頼まれる。サウナのある場所へ行くと、そこはすでに炊き出しの場所になっており、物資の配布を行うセンターのようにもなっていて、ホッとした。そこの取り仕切りをしている60代の男性と話をすると、"ここはもういいから、大丈夫だから、海沿いのもっと酷い場所へいってやってくれ、頼む"、といわれた。
ここまで私は被災者たちがお互いに気遣い、思いやる美しい側面に触れてきたがもちろんそれだけではない。日がたつにつれ、そして今すぐに必要な食物が満たされてくると、日常へ復帰しようという欲望が当然のように湧いてくる。そして少しさきのことまで考えられるようになるとき、同時に貪欲や嫉妬、そして身勝手が顔をだすようになる。しかし誰がそれを責められよう。それは人間のもつ一側面でもあるのだ。一人の女性が貪欲に支援物資を求めたからといって、彼女の背中に何人の人々が、何人の家族がいるのか私たちは知らない。
自衛隊の倉庫には山ほどの物資がある。ひとつの巨大なテントにはカレー、また別のテントには米といった具合だ。ものすごい物資の量だ。しかし分配がうまくいっていない。パニックを恐れる彼らは、配布場所をアナウンスすることなく、ある日、ある場所で突然支援物資を配る。誰も知らないのに、誰が手に入れられるというのだろう?あの大量の物資はどうするつもりなのだろう?ここの自衛隊の倉庫にはだぶだぶの迷彩服を着た若い子たちがいっぱい配備されている。味噌を50箱取りにいったら、そんなに渡せないという。部隊の名誉にかかわるというのだ。なかなか正直でよろしい。もう少し年月を過ごせば、耳障りのいい理由をこさえる事ができるようになるだろう。
自衛隊であれ、ピースボートであれ、その他のボランティア団体に対してであれ、ここに集まる物資はまるでテレビの視聴者の感想が集まっているかのようだ。ある女性がインタビューで子供服が必要だといえば、数日後に子供服ばかりが届く。ある一人が個人的に必要な物資が大量に送られてくることがままあり、そのたびに倉庫はてんてこ舞いになる。
続く。。
一日目の作業を終えた後、雨と雪にさらされたレインコートとその上に着ていたスキー服をガイガーカウンタで調べた。総量は約43-69cpmといったところで、約2~3倍といっていいだろう。アルファ線を検出するデバイスでは0.安心した。これで放射能被害が加わってはここの人々はたまらない。土壌の放射線量は計測していない。29日には、被災者が飲み水にしていた湧き水から放射性物質が検出され、市が飲むのをやめるようにとの通達をだした。水道水では検出されておらず。今は北風だからこの程度で済んでいるが、春風が吹くころはこの通りではないだろう。
3日目に一緒になったのがやはり個人ボランティアのかたで、45歳くらいかな、ばりばりの広島弁であだ名は組長。やはり専修大学のキャンパスにテントを張って住んでおり、バイクでよく旅をする大工の彼のDIY能力は非常に優れている。彼もやはり、居ても立ってもいられずに石巻へ来た一人だ。私たちは海からすこし離れた住宅地へと向かった。ここでは家々は倒壊せずに普通に建っており、一見ごく普通なのだが電気、ガス、水道は通っておらず、また親戚、友人家族が港周辺から避難してきて一緒に住んでいる家も多い。一つの家に4~5世帯が避難していることもあった。家が普通に建っていて、個人的に避難をしている人々は避難所に登録していないため、見過ごされていることの多い地域。倒壊の激しいエリアとは別の問題がここにはある。オープンし始めるスーパーもあるが、朝から大行列、店に入るころには物はないという状態。道に歩いている人や近所を聞いて周って避難者を探し出す。一人の女性に、目の不自由な按摩さんや身障者のひとたちが避難している石巻サウナへ行ってくれと頼まれる。サウナのある場所へ行くと、そこはすでに炊き出しの場所になっており、物資の配布を行うセンターのようにもなっていて、ホッとした。そこの取り仕切りをしている60代の男性と話をすると、"ここはもういいから、大丈夫だから、海沿いのもっと酷い場所へいってやってくれ、頼む"、といわれた。
ここまで私は被災者たちがお互いに気遣い、思いやる美しい側面に触れてきたがもちろんそれだけではない。日がたつにつれ、そして今すぐに必要な食物が満たされてくると、日常へ復帰しようという欲望が当然のように湧いてくる。そして少しさきのことまで考えられるようになるとき、同時に貪欲や嫉妬、そして身勝手が顔をだすようになる。しかし誰がそれを責められよう。それは人間のもつ一側面でもあるのだ。一人の女性が貪欲に支援物資を求めたからといって、彼女の背中に何人の人々が、何人の家族がいるのか私たちは知らない。
自衛隊の倉庫には山ほどの物資がある。ひとつの巨大なテントにはカレー、また別のテントには米といった具合だ。ものすごい物資の量だ。しかし分配がうまくいっていない。パニックを恐れる彼らは、配布場所をアナウンスすることなく、ある日、ある場所で突然支援物資を配る。誰も知らないのに、誰が手に入れられるというのだろう?あの大量の物資はどうするつもりなのだろう?ここの自衛隊の倉庫にはだぶだぶの迷彩服を着た若い子たちがいっぱい配備されている。味噌を50箱取りにいったら、そんなに渡せないという。部隊の名誉にかかわるというのだ。なかなか正直でよろしい。もう少し年月を過ごせば、耳障りのいい理由をこさえる事ができるようになるだろう。
自衛隊であれ、ピースボートであれ、その他のボランティア団体に対してであれ、ここに集まる物資はまるでテレビの視聴者の感想が集まっているかのようだ。ある女性がインタビューで子供服が必要だといえば、数日後に子供服ばかりが届く。ある一人が個人的に必要な物資が大量に送られてくることがままあり、そのたびに倉庫はてんてこ舞いになる。
続く。。
石巻
早朝、高速を降りて石巻を走ると、町並みはごく普通であった。家々も電柱も真っ直ぐ立っている。倒壊もしていない。ここが地震と津波の被害を最もこうむった場所のひとつだと聞かされなければ、ごく普通の町だ。石巻NPO連絡会議の本部が専修大学にある。キャンパスにはピースボートが使っている巨大な倉庫があり、ちょうどカナダのメディカル・チームとレスキューがテントを張っているところだった。また個人ボランティアのテントもグランドに数多く張られている。
日本財団、ピースボート、自衛隊の倉庫から救援物資を車に積み込む。水、米、味噌、パン、缶詰、カップヌードル、リンゴ、薬、カセットコンロ、ガスボンベ、電池、ろうそく、子供用・大人用オムツ、軍手、ゴム手、長靴、レインコート、などなど。。。
最初のアクションは、石巻市で最も津波の被害を受けた、湊町、川口町、明神町、大門町へ向かい、海水を避けて家の二階へ避難したまま、避難所などで把握されず、救援物資を受け取ることのできない人たちを一軒一軒まわって探し出しながら手渡していくというもの。市役所の職員は半数が流されており、生存者、避難者の把握はもちろん、物資の配給は滞っている。ここにきて津波の被害を受けた風景を始めて目にする。雪混じりの雨のなか、船と車がひっくり返って道路をふさぎ、多くの車はありえないところ、コンビにの店内、家の二階、線路上に転がっている。地盤が沈下したため、満潮時には海水がひざとくるぶしの間まで水が上がる。その中を自転車に乗るタフな被災者もいた。同じく町をローリングして物資を手渡すローリング部隊の一人、広島から軽トラックで駆けたボランティアのタイヤがパンクした。同じ型のフレームが見つからず、タイヤの交換はできず、もちろん修理できるところもない。そこで車をそこにおき、救援物資を取りに来てくれるように一軒一軒声をかけて回った。顔を落としながら、言葉もなく、袋をもって雪混じりのなか集まる人々は、亡霊のようでもあった。
その日の午後、居てもたっても居られず高知からきたコウセイ君と一緒に回ることになった。35歳くらいの彼は、北へ向かう途中で目にしたテレビの映像で、石巻に来ようと決めたと語っていた。彼の行動は非常に丁寧で、フェアで、よく考えられたものだと思った。彼は被害の酷い石巻市街を中心に家々を周り、一人一人になにが困っているかをききだし、倉庫へ戻り、携帯の充電器さえ探し出して手渡した。彼は最も不便しているだろうお年寄りの家を多く回った。組織的なボランティア・グループは最も困った人たちを見落としがちになる。炊き出しや救援物資を避難所などに届けても、それを手にすることのない人々はここにはいっぱいいるのだ。
二日目には女川へ向かった。ここの津波の被害は凄まじい。まるで大規模空爆で町ひとつが消えてしまったかのようだ。大きな船がかなり内陸のほうで転がっており、バスが公民館の二階にあったり、コンクリの建物が横たわっており、港から人家にかけては敢えて粉々に砕いたかのように破壊されている。20mくらいの高台に病院がみえるが、その病院の一階まで海水に浸かったといっていた。石巻もそうだが、この辺りの人々は子供のころから、いずれ宮城県沖で大地震があることを聞いて育っている。それゆえ防災の用意をしていたという人も多かった。地震のすぐあとに身一つで高台に逃げた人は助かり、車や徒歩で必要なものを手にして逃げようとした人たちは津波に飲まれた。
石巻と女川の違いははっきりしている。津波による破壊、倒壊の凄まじさからか、生き残ったほとんどの人たちは避難所におり、もともとの地域コミュニティが生きているため、誰が亡くなり、誰が生き残っているかはよく把握されており、救援物資の分配も区長さんなどの地域コミュニティのリーダーが取り仕切り、とりこぼれが少なかった。こうしたコミュニティの結束力は何にも増して変えがたいインフラとして機能しており、人々の顔にも心なしか安堵の表情が浮かんでいる。人間関係がすでに都市化されている石巻市街との差は明らかだ。
私たちは日本財団が仕切っている公民館のキッチンを寝床にしていた。日本財団は嫌いだが、いまは批判しているときじゃない。NPOの長い会議が終わった後に帰ってくると、寝床に集まったほかのボランティアの人たちといろいろと情報交換をした。八ヶ岳からここへきて、炊き出しの支援を避難所で行っていたチャン君は、泥や海水のなかから拾い集めた1円玉の入った缶を”ボランティアの皆さんで使ってください”といって手渡された。ボランティア活動に通じている兵庫から来た整体士の津田さんは、マスコミの記者は訓練不足だと怒っていた。マスコミは”なにが一番困っていますか?なにがいま、一番必要ですか?”と判で押したように”一番”しかきかないと。”見てわからんか?!あいつらは二番、三番はどうでもいいんや”といって怒っていた。なにもかも失った人々、家族や友人を失った人々に一番を聞いてどうするんだ。確かに。和歌山からきた小学校の先生は”そうですよね、家族を失ったのが一番に決まっているじゃないですか”といっていた。ここに個人的に集まったボランティアの人々の意識は高く、成熟している。
続く。。。
日本財団、ピースボート、自衛隊の倉庫から救援物資を車に積み込む。水、米、味噌、パン、缶詰、カップヌードル、リンゴ、薬、カセットコンロ、ガスボンベ、電池、ろうそく、子供用・大人用オムツ、軍手、ゴム手、長靴、レインコート、などなど。。。
最初のアクションは、石巻市で最も津波の被害を受けた、湊町、川口町、明神町、大門町へ向かい、海水を避けて家の二階へ避難したまま、避難所などで把握されず、救援物資を受け取ることのできない人たちを一軒一軒まわって探し出しながら手渡していくというもの。市役所の職員は半数が流されており、生存者、避難者の把握はもちろん、物資の配給は滞っている。ここにきて津波の被害を受けた風景を始めて目にする。雪混じりの雨のなか、船と車がひっくり返って道路をふさぎ、多くの車はありえないところ、コンビにの店内、家の二階、線路上に転がっている。地盤が沈下したため、満潮時には海水がひざとくるぶしの間まで水が上がる。その中を自転車に乗るタフな被災者もいた。同じく町をローリングして物資を手渡すローリング部隊の一人、広島から軽トラックで駆けたボランティアのタイヤがパンクした。同じ型のフレームが見つからず、タイヤの交換はできず、もちろん修理できるところもない。そこで車をそこにおき、救援物資を取りに来てくれるように一軒一軒声をかけて回った。顔を落としながら、言葉もなく、袋をもって雪混じりのなか集まる人々は、亡霊のようでもあった。
その日の午後、居てもたっても居られず高知からきたコウセイ君と一緒に回ることになった。35歳くらいの彼は、北へ向かう途中で目にしたテレビの映像で、石巻に来ようと決めたと語っていた。彼の行動は非常に丁寧で、フェアで、よく考えられたものだと思った。彼は被害の酷い石巻市街を中心に家々を周り、一人一人になにが困っているかをききだし、倉庫へ戻り、携帯の充電器さえ探し出して手渡した。彼は最も不便しているだろうお年寄りの家を多く回った。組織的なボランティア・グループは最も困った人たちを見落としがちになる。炊き出しや救援物資を避難所などに届けても、それを手にすることのない人々はここにはいっぱいいるのだ。
二日目には女川へ向かった。ここの津波の被害は凄まじい。まるで大規模空爆で町ひとつが消えてしまったかのようだ。大きな船がかなり内陸のほうで転がっており、バスが公民館の二階にあったり、コンクリの建物が横たわっており、港から人家にかけては敢えて粉々に砕いたかのように破壊されている。20mくらいの高台に病院がみえるが、その病院の一階まで海水に浸かったといっていた。石巻もそうだが、この辺りの人々は子供のころから、いずれ宮城県沖で大地震があることを聞いて育っている。それゆえ防災の用意をしていたという人も多かった。地震のすぐあとに身一つで高台に逃げた人は助かり、車や徒歩で必要なものを手にして逃げようとした人たちは津波に飲まれた。
石巻と女川の違いははっきりしている。津波による破壊、倒壊の凄まじさからか、生き残ったほとんどの人たちは避難所におり、もともとの地域コミュニティが生きているため、誰が亡くなり、誰が生き残っているかはよく把握されており、救援物資の分配も区長さんなどの地域コミュニティのリーダーが取り仕切り、とりこぼれが少なかった。こうしたコミュニティの結束力は何にも増して変えがたいインフラとして機能しており、人々の顔にも心なしか安堵の表情が浮かんでいる。人間関係がすでに都市化されている石巻市街との差は明らかだ。
私たちは日本財団が仕切っている公民館のキッチンを寝床にしていた。日本財団は嫌いだが、いまは批判しているときじゃない。NPOの長い会議が終わった後に帰ってくると、寝床に集まったほかのボランティアの人たちといろいろと情報交換をした。八ヶ岳からここへきて、炊き出しの支援を避難所で行っていたチャン君は、泥や海水のなかから拾い集めた1円玉の入った缶を”ボランティアの皆さんで使ってください”といって手渡された。ボランティア活動に通じている兵庫から来た整体士の津田さんは、マスコミの記者は訓練不足だと怒っていた。マスコミは”なにが一番困っていますか?なにがいま、一番必要ですか?”と判で押したように”一番”しかきかないと。”見てわからんか?!あいつらは二番、三番はどうでもいいんや”といって怒っていた。なにもかも失った人々、家族や友人を失った人々に一番を聞いてどうするんだ。確かに。和歌山からきた小学校の先生は”そうですよね、家族を失ったのが一番に決まっているじゃないですか”といっていた。ここに個人的に集まったボランティアの人々の意識は高く、成熟している。
続く。。。
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